大判例

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東京高等裁判所 昭和39年(ネ)1577号 判決 1968年10月21日

昭和三九年(ネ)第一五〇六号、同第一五七七号事件被控訴人、

同第一六一一号事件控訴人(第一審原告)

福井正雄

山口啓二

新井浩

山口省太郎

石崎可秀

今西省

渡辺宏一

湯川和夫

高橋信一郎

名和利也

清水義汎

森章

山崎昂一

浜本武雄

池端功

幼方直吉

野原四郎

尾崎庄太郎

凉野元

大須賀きく

野村昭夫

山辺健太郎

早川正賢

清水徹

右二四名訴訟代理人弁護士

牧野内武人

外一七名

昭和三九年(ネ)第一六一一号事件被控訴人(第一審被告)

右代表者法務大臣

赤間文三

右指定代理人

鎌田泰輝

外一名

昭和三九年(ネ)第一五〇六号事件控訴人、

同第一六一一号事件被控訴人(第一審被告)

東京都

右代表者知事

美濃部亮吉

右指定代理人

石葉光信

外三名

昭和三九年(ネ)第一五七七号事件控訴人

(第一審被告東京都補助参加人)

末松実雄

右訴訟代理人弁護士

山下卯吉

外八名

主文

一第一審原告らの第一審被告国に対する各控訴を棄却する。

二第一審原告らと第一審被告東京都との間において

(一)  第一審原告福井正雄、同山口啓二、同新井浩、同山口省太郎、同石崎可秀、同今西章、同渡辺宏一、同湯川和夫、同高橋信一郎、同名和利也、同清水義汎、同森章、同山崎昂一、同浜本武雄、同池端功、同幼方直吉、同野原四郎、同尾崎庄太郎、同凉野元、同大須賀きく、同早川正賢の各控訴、及び第一審被告東京都の第一審原告野村昭夫、同山辺健太郎、同清水徹、同湯川和夫、同名和利也、同今西章、同山崎昂一に対する各控訴を棄却する。

(二)  原判決中第一審原告野村昭夫、同山辺健太郎、同清水徹同福井正雄、同大須賀きく、同清水義汎、同渡辺宏一、同幼方直吉、同凉野元、同新井浩、同石崎可秀、同森章、同浜本武雄、同尾崎庄太郎、同山口啓二、同山口省太郎、同高橋信一郎、同池端功に関する部分を次のとおり変更する。

「1 第一審被告東京都は第一審原告野村昭夫、同山辺健太郎に対し各金二五万円、同清水徹に対し金二〇万円、同福井正雄、同大須賀きくに対し各金一〇万円、同清水義汎に対し金七万円、同渡辺宏一、同幼方直吉、同凉野元に対し各金五万円、同新井浩、同石崎可秀、同森章、同浜本武雄、同尾崎庄太郎に対し各金三万円、同山口啓二に対し金二万円、同山口省太郎、同高橋信一郎、同池端功に対し各金一万円及び右各金員に対する昭和三五年六月一七日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2 右第一審原告らのその余の請求を棄却する。」

(三)  原判決中第一審原告野原四郎、同早川正賢に関する部分を取り消す。

右原告らの各請求を棄却する。

三訴訟費用中、第一審原告らの第一審被告国に対する控訴によつて生じた部分は第一審原告らの負担とし、第一審原告らと第一審被告東京都の間に生じた部分は第一、二審を通じてこれを二分し、その一を第一審原告らの負担とし、その余を第一審被告東京都の負担とする。

事実

第一審原告ら訴訟代理人は、昭和三九年(ネ)第一六一一号事件(以下第一六一一号事件といい、その余の事件も同様に略称する。)について、「原判決中第一審原告らと第一審被告国に関する部分並びに第一審原告らと第一審被告東京都に関する部分中第一審原告ら敗訴の部分を取り消す。第一審被告国は、第一審原告石崎可秀、同森章、同野原四郎に対し各金二〇万円、第一審原告山口啓二、同山口省太郎、同池端功に対し各金一〇万円、その余の第一審原告らに対し各金三〇万円及びいずれもこれに対する昭和三五年六月一七日以降完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

第一審被告東京都は、第一審原告早川正賢に対し金二七万円、同高橋信一郎に対し金二五万円、同新井浩、同今西章、同渡辺宏一、同山崎昂一、同凉野元、同浜本武雄に対し各金二三万円、同清水徹、同清水義汎、同幼方直吉に対し各金二〇万円、同福井正雄、同尾崎庄太郎、同大須賀きく、同野原四郎に対し各金一五万円、同森章に対し金一三万円、同石崎可秀、同名和利也、同野村昭夫、同山辺健太郎、同湯川和夫に対し各金一〇万円、同池端功に対し金八万円、同山口啓二に対し金七万円、同山口省太郎に対し金五万円及びいずれもこれに対する昭和三五年六月一七日以降完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は第一、二審とも第一審被告らの負担とする。」との判決及び金員支払について仮執行の宣言を、第一五〇六号、第一五七七号事件についてそれぞれ控訴棄却の判決を、第一審被告指定代理人は、第一六一一号事件について控訴棄却の判決を、第一審被告東京都指定代理人は、第一五〇六号事件について、「原判決中第一審被告東京都敗訴の部分を取り消す。第一審原告らの右部分の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも第一審原告らの負担とする。」との判決を、第一六一一号事件について控訴棄却の判決を、第一審被告東京都補助参加人(以下補助参加人という。)訴訟代理人は、第一五七七号事件について「原判決中第一審被告東京都敗訴の部分を取り消す。第一審原告らの右部分の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも第一審原告らの負担とする。」との判決をそれぞれ求めた。

当事者双方及び補助参加人の主張並びに証拠の関係は次に附加するほかは、原判決事実摘示と同一であるからこれを引用する。《以下省略》

理由

一 事件発生直前までの第一審原告(以下単に原告と云い第一審被告についても同様とする。)らの行動

(一)  大研研の成立及びその活動

<証拠>を総合すれば、以下1ないし4の各事実を認めることができ、これを覆すに足る決定的な証拠はない。

1  岸信介を首班とする内閣は、昭和二六年九月八日サンフランシスコにおいて対日講和条約と同時に締結され、同二七年四月二八日をもつて発効した「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」を改定する目的で、昭和三五年一月一九日あらたに「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(以下安保条約と云う。)の締結を図つたが、国民の間にも右条約をもつて日米間の軍事同盟的性格を有し、日本国内に米軍基地の設置及び米軍の駐留を承認する事態を招来するに止まらず、日本国に防衛力の漸増及び軍事的紛争への参加を義務づけるものであるとしてその締結に反対する意見があり、条約の締結に反対する労働組合、知識人の団体、宗教団体、学生団体等の反対運動の統一、調整及び指導をする目的で安保改定阻止国民会議(以下国民会議と云う。)なる全国的な組織が結成され、その指導のもとに、同年四月中頃には、デモによる第一次統一行動を皮切に統一的な安保改定阻止運動が展開された。次で、同年七月には、主として在京の学者、研究者等によつて安保問題研究会なる組織が結成されて安保改定の是非が論議されるに至つた。そして安保条約は、昭和三五年一月一九日ワシントンにおいて日米両国政府の全権によつて調印され、国会の承認を得るため第三四回通常国会の審議に付されるに及び院内においては、与党の自由民主党と野党との間に承認の可否をめぐつて激しい意見の対立があり、院外においては、国民会議を主体とする大規模な安保改定阻止の請願行使行動が活溌に展開された。しかしながら、衆議院においては、与党側が条約承認の自然成立を意図して野党側議員欠席のまま同年五月一九日深更から二〇日未明にかけて五〇日間の会期延長と安保条約の承認に関する案件を一括して可決したので、安保条約の改定に強く反対する者は、衆議院における右採決をもつて与党の一方的な強行採決であり、かかる採決は議会主義の基本原理を無視するものであるとし、これを契機として安保条約改定に対する反対運動を高め、他方同年六月二日には、東京都内の教育会館において、学者及び文化人を主体とする民主主義を守る全国学者研究者の会(以下民学研と云う。)が生れ、さらにその頃、民学研とは別に学者、研究者のみでなく、ひろく学校事務職員、技術職員をも含め、主要大学の職員組合、東京都私学教職員組合連合(以下私教連と云う。)及び民学研等を打つて一丸とし、安保条約改定阻止の統一行動を目指す団体が結成され、同月一一日には、これに安保問題歴史家懇談会等の各種研究団体に所属する有志者をも加え、ここに東京都及びその近県にある大学、研究所、研究団体等の教職員、大学院学生等の有志者をもつて「大学、研究所、研究団体集会」(略称大研研)の成立を見るに至つた。そして、大研研は、直ちに所属の各大学、研究所、研究団体から担当責任者を選出して実行委員会を発足させ、翌一二日頃、右の実行委員会において、大研研は、同月一三日夜に行なわれた東京教育大学と法政大学に対する警察官の捜索押収に抗議するため、国民会議の計画した日比谷公園野外音楽堂における同月一五日の第一八次統一行動に参加する方針を決定した。

2  そこで、大研研に所属する東京大学、東京教育大学、東京農工大学、法政大学、早稲田大学、明治大学等の各大学及びこれらの大学所属の研究所の教職員並びに大学院学生、民間研究所もしくは研究団体の研究員及び職員、私教連傘下の小中学校及び高等学校その他私教連未加盟校の教職員など、団体数にして約四〇団体、総人員にして約三五〇〇名が、六月一五日午後五時頃、一旦東京都千代田区日比谷公会堂前広場に集結し、議長団に明治大学教授篠崎武、東京大学助教授五十嵐顕、中国研究所員浅川謙次の三名を、参加各団体の行動を掌握する指揮班に畠山英高(総指揮)、原告山口啓二、同石崎可秀、同清水義汎、同池端功ほか五名をそれぞれ選出し、ほかに参加各団体毎に指揮班との連絡を保つ連絡員一名と集団示威行進の妨害を防ぐ警備員として東京大学、明治大学、法政大学等から数十名の者を選んだ後、午後五時三〇分頃、国民会議主催の第一八次統一行動に参加すべく、日比谷公園野外音楽堂に移動した。しかし、当時参加予定の大半が未到着であつたので、大研研は、六月一三日夜警察官が東京教育大学及び法政大学に対して行つた、捜索、押収事件についての抗議集会を持ち、六時過ぎ決議文を採択し、警視庁に抗議するため代表団として原告山口啓二ら一〇名を選出し、午後六時三〇分頃、宣伝カーに続いて抗議代表団を先頭に、六列縦隊で国民会議の計画に従い、警視庁からチャペルセンター前を通つて国会正門前に出、参議院通用門前を経て衆議院面会所前からアメリカ大使館に向い、新橋で解散する予定で示威行進を開始し、まず警視庁に抗議するため、日比谷野外音楽堂より裏門を出て最高裁判所角を右折し警視庁に向つた。議長団及び指揮班は、このとき、全員約一五センチメートル幅の白木綿に墨で「大学、研究所、研究団体集会」と書かれたたすきを着用し、参加者の多くの者も、所属する各大学、研究所、研究団体名を表示した腕章を巻き、プラカードを持つていた。

警視庁前に到着した大研研は、抗議集会における趣旨に基づき抗議を行うべく、前記代表団を通じて小倉警視総監に面会を申し入れたが、正面入口前の警官のピケに阻まれて代表団は警視庁に入ることができず、交渉もさらに進展を見せなかつたので、約三〇分同所に滞留した後、代表団を残し、既定の方針に従つて再び示威行進に移り、チャペルセンター前、国会正門前、参議院第二通用門を経て午後八時頃、衆議院第一議員会館前広場に到着したが、右議員会館において国会議員に対し手渡す予定であつた請願書は、当時国会議員の姿が見当らなかつたために手渡すことができなかつた。なお、その頃における大研研の人員は行進途中で参加した者を加えて当初の約三、五〇〇名を上廻つていた。

ところで、同所に至る途上、国会正門前附近で学生が負傷し、死者も出たらしいと叫ぶ学生がいて、学生や救急車が傍らを通り抜けるのが目撃されたので、事態を確認するために、大研研は、国民会議の代表者に連絡を執り、間もなく連絡に当つていた指揮班の清水義汎から、南通用門附近で警官隊と学生が衝突し、学生側に死者と数百人の負傷者が出た旨の報告があり、次いで指揮班から、情報によれば、なお学生と警官隊との衝突の危険が予想される模様であるから、大研研は、予定のコースを変更し、抗議事項に警官隊の行為による学生の負傷を加え、警視庁において再度警視総監に抗議したうえ、新橋方面に向つて流れ解散する案が提案された。しかし、この提案に対しては、教職関係者が大部分を占める大研研の立場上、学生をこのまま放置して行くことはできないとの反対意見が強く、討議の末、「負傷した学生の救護活動に従事するとともに、警察官の行動に対し抗議する。学生と警官隊との再度の衝突を防ぐため実情を確め、事態の収拾を図るように努力すべきである。」との意見が大勢を占め、指揮班の右提案は斥けられ、ここに至つて大研研は、当初の目的を変更し、全員が南通用門に向い進み得るところまで進むことになつた。

そこで大研研は、老令者と婦人とを隊列から除き、国会南通用門に向つて行進を開始し、六列縦隊で首相官邸前十字路を左折し、午後九時頃、南通用門手前約六〇メートルの衆議院自動車車庫寄りの幅員約二三メートルの道路上に宣伝カーを先頭に正門方向に向つて右から私立大学関係、東京地区大学教職員組合連合の順序に一八列縦隊に集結し、その後方に関係大学の大学院学生、民間研究所関係者が並んだ隊形で待機することになり、その先頭附近には明大教職員組合、大学教組等の文字の入つた高張提燈を立てていた。

3  大研研が衆議院車庫前道路上に待機の姿勢に入つて間もなく、抗議のため警視庁前に残つた代表団も復帰し、大研研としては負傷した学生の状況調査とその救護活動を促進するとともに、再び繰返される虞のある国会周辺の学生と警官隊との衝突を未然に防止する方法として、警察側と交渉するために、国会内に代表団を派遣することを決定し、主な参加団体の中から一名宛計三三名の院内交渉団を選出し、指揮班から原告山口啓二外一名が連絡係としてこれに加つた。院内に入つた交渉団は、衆議院議員面会所において学生と警官隊との衝突に関する情報を収集し、当時警察側では、国会構内において抗議集会を開いている学生と対峙の姿勢を採つており、当面実力の行使を避けているが事態は楽観を許さないことを知り、議員面会室で今後の方針を打合せるかたわら、各大学医学部に救護班を派遣して呉れるように連絡を採つていたが、そのうち午後一〇時三〇分頃、南通用門内で再び学生と警官隊との間に衝突が起り、間もなく学生は警官隊によつて南通用門から国会構外へ排除され、学生の負傷者が続々議員面会所に担ぎ込まれ、他方南通用門と正門との中間附近で火の手が上り、警察の車輛が炎上しているとの情報が入つた。そこで院内交渉団は、この上の衝突を防止するためには、何よりもまず学生側と警官側の双方と話合をつけなければならないとして、二手に分れ、原告清水義汎、同山口啓二ら約一二名は、学生集団の代表者に会つて早急に解散するよう説得するために国会正門附近に赴いたが、代表者を見付けることができなかつたので引き返し、他方警察側の責任者と交渉すべく院内に留まつた交渉団は、院内で行動する自由が得られず、議員面会室に釘付けにされたままで社会党、共産党を通じて警察側と交渉する以外に途はなく、警視総監の代理として来院した警視庁新井刑事部長に対しても、社会党の国会議員を介し、学生を説得して早急に解散させるから、警官隊も手を引くこと及び国会構内の負傷した学生を速かに病院に運ぶこと等を申し入れたが、明確な回答を得ることができず、結局事態収拾のための努力も徒労に終つた。

六月一六日午前〇時三〇分頃には事態を憂慮して茅東京大学総長、大浜早稲田大学総長が駈付けたので、院内交渉団からも状況の説明が行われ、両総長は、小倉警視総監に会見を申入れて事態の収拾を図ることとなつた。そして院内交渉団は、一六日午前一時頃、「六月一五日の事件は、右翼暴力団の挑発と暴行と右翼と共謀した警察当局の不当な弾圧の結果計画的に引起されたものである。警察当局が右翼暴力団の殴り込みを黙過したのみか、自らも警棒以外の兇器まで用い、正当な抗議に赴いた無抵抗な学生に目を背かせるような傷を負わせ、さらには、負傷した学生を地下室に監察し、手当を妨害したのは民主国家で許されない残虐行為であり、とりわけ教育者たるわれわれの許すことができないところである。」との趣旨の大研研の声明文案を起草し、これを報道機関に公表した後、衆議院車庫前に待機していた大研研の集団に諮るべく、原告山口啓二が草稿をもつて大研研集団に戻り、他方院内に残つた交渉団は、社会党議員の斡旋によつて雨中を長時間待機し、疲労の色を濃くしている大研研の集団を衆議院議員面会所の廊下で待機させることとし、これを誘導するために原告清水義汎ほか数名が原告山口啓二と相前後して衆議院車庫前の集団に戻つた。

4  一方院内交渉団を派遣した後、大研研は、交渉団からの経過報告を待ちながら、衆議院車庫前道路上に待機していた。しかし、一五日午後一一時前から降雨が幾分激しくなり、且つ多くの者は夕食も摂らす、疲労しており、さらに地下鉄の終電車の時刻も迫つたので、翌日以降のそれぞれの活動の都合をも考慮したうえ、畠山英高総指揮から、一五日午後一一時頃集団の解散の提案があり、討論の結果、大研研としては学生を見守るためにそのままの態勢で待機を続けるが、疲労の甚だしい者及び翌一六日以後の活動に支障のある者は帰宅させることとなり、午後一一時三〇分頃には残留者の数は約五〇〇名程度となつた。そして、一五日午後一二時頃大研研は、正門前附近にいた学生と警官隊との衝突を防止するために、学生の説得に努めることとなり、前記の院内交渉団による説得とは別に指揮班から代表者として原告石崎可秀ほか三名を正門前に赴かせたが、学生の指揮者を見付けることができなかつたので、学生の一部の者に対し早急に解散するよう指揮者に伝言するように言残して集団の位置に戻つた。

一六日午前一時頃には、集団の人数は更に減少し、おそよ三〇〇名の者が断続的に雨の見舞う天候の下で所属団体別に三々五々グループを作つて私語し、中にはプラカード類を燃やして焚火をしているグループもあつて隊形は縮少し、隊列も崩れており、後に認定するとおり、原告早川正賢、同渡辺宏一らのように衆議院車庫前を離れる者もあつて、集団に対する統制も幾分乱れていた。大研研がこのような状態にあつたとき、一六日午前一時二〇分頃、前認定のように原告山口啓二は声明文案を大研研の集団に諮るために、また原告清水義汎らは大研研を衆議院議員面会所に誘導するために、相前後して集団の先頭附近に戻り、原告山口啓二は、携した声明文案を披露する旨を告げ、集団の前部に居た者が同原告を取り囲むように移動した後、まさに声明文案を読上げようとしたとき、正門方面でパンパンという音が聞え、突然大研研の左側即ち国会寄りの道路上を数十名の主に白ワイシャツを着た学生風の人の群が国会正門方向から首相官邸方向へ追われるように、相次で駈抜け、その数は一〇〇名を遙かに越えるものと見られた。その間に、大研研の集団の中から「右翼が来た」という声も起り、やがて大研研の先頭附近にいた一部の者は前方に鉄かぶとの波が揺れ動くのを認め、迫つてくる者が警官隊であることを知つた。このとき、原告山口啓二の周囲に集まつた者は、各自の隊列に復帰し、集団の中から発せられた「スクラムを組もうという」声に応じ、一部ではとつさにスクラムを組み、または組みかけていた。

(二)  原告らの職業、地位及び六月一五日における大研研集団への参加

<証拠>を総合すれば、次の1ないし7の各事実を認めることができ、これを覆すに足るだけの決定的な証拠はない。

1  原告森章は、明治大学講師で六月一五日午後八時頃、明治大学教職員組合の一員として同組合のグループに加わつたが、当夜の服装は、背広にネクタイを締め、左腕に「明治大学教職員組合」と白く染め抜いた赤地の腕章を着用し、一六日午前一時過頃には、大研研集団の前部中央を占めていた明治大学関係グループの最前列にいた。

2  原告浜本武雄は、明治大学講師で六月一五日大研研が衆議院車庫前に移つた頃、明治大学教職員のグループに参加したが、当夜の服装は、合の背広にネクタイを締めて革のかばんを携行していた。一六日午前一時過ぎ頃、同原告は、明治大学関係グループの最前列にいた。

3  原告山口啓二は、東京大学史料編さん所助手で大研研指揮班の一員であり、背広にネクタイを締めレインコート、ソフト帽を着用し、「大学、研究所、研究団体、指揮班」と書いたたすきをかけ、すでに認定したように警視庁への抗議の代表団並びに院内交渉団の一員として行動し、その間正門前の学生の説得に赴き、一六日午前一時二〇分頃、前述の声明文案を大研研の集団に諮るべく院内から衆議院車庫前路上の大研研集団の前列車庫寄りの辺にいた。

4  原告清水義汎は、明治大学助教授で私教連の書記長の地位にあり当日ハンチングに背広、レインコートという服装で「東京私教連」と染め抜いた腕章をつけ、大研研の指揮班並びに院内交渉団の一員として行動し、その間正門前の学生の説得に赴き、再び院内に戻つたが、一六日午前一時過頃、前述のとおり大研研の集団を衆議院議員面会所の廊下に誘導する任務を帯びて議員面会所から衆議院車庫前路上の大研研集団のところへ戻り、明治大学関係グループの先頭の列外にいた。

5  原告早川正賢は、東京教育大学理学部助手で、教育大学職員組合の書記長の地位にあり、当日半袖開衿シャツを着用し、大研研の一員として行動していたが、一六日午前一時少し前に大学院学生二名と共に国会正門前あたりまで状況を見に出かけ、正門附近で催涙弾が発射されたことに危険を感じ急いで大研研の待機していた位置に駈戻ろうとした。

6  原告清水徹は、東京大学文学部フランス文学科助手で国学院大学講師を勤め、六月一五日は東京大学の大学院学生グループとともに大研研集団の一員として夕刻から行動していたが、翌日の授業の準備をするため午後七時頃帰宅したところ、深更のラジオ放送で南通用門附近において学生と警官隊との間に衝突があり多数の負傷者がでたことを聞いたので、自分が関係する東京大学の仏文専攻の大学院学生の安否を気遣い、一つにはラジオ東京の報道部員であつた同原告の妻美智子がその職務上国会正門前の現場の状況を自ら確認しておくことを望んだこともあつて、一六日午前一時少し前にハンチングにスポーツシャツ、レインコートという服装で、妻とともに地下鉄第一入口まできて衆議院車庫前路上に大研研の集団を認め、その中に気遣つていた大学院学生が無事でいるのを確認できた。そこで同原告は妻と共に国会正門前の状況を見ておくため正門方向へ歩き、午前一時頃には恩給局前に達した。

7  以上述べたほかの原告らは、大研研が日比谷公園野外音楽堂を出発する頃までには大研研の集団に参加し、以後大研研の一員として行動していたが、六月一六日午前一時過頃の位置、職業及び地位は左に述べるとおりである。

(イ) 原告福井正雄は、東京大学理学部助手で、六月一五日は背広にネクタイ、レインコートを着用、傘を所持し、一六日午前一時過頃には大研研集団の左側先頭部を占めていた東京大学関係グループの左端中央附近にいた。

(ロ) 原告新井浩は、東京大学伝染病研究所助手で同大学教職員組合の執行委員であり、当日はハンチングをかぶり、背広にネクタイを締め、白布に墨で東大職組と書いた腕章をつけて革かばんを持ち一六日午前一時過頃には大研研集団の東京大学関係のグループの先頭から三、四列目あたりに居た。

(ハ) 原告山口省太郎は、東京大学原子核研究所助教授で、当日はジャンパーを着用し、ショルダーバックを提げ左腕に「東大原子核研究所」と書かれた腕章をつけて東京大学関係のグループの前から二列目の右側附近にいた。

(ニ)原告石崎可秀は、東京大学原子核研究所助教授で、東京地区大学教職員組合の副委員長であつて、当日は背広にネクタイを締め、「大学、研究所、研究団体指揮班」と書かれたたすきをかけ、東京地区大学教職員組合連合の腕章をつけ、大研研指揮班の一員として大研研集団に参加し、警官隊と接触した一六日午前一時過頃には東京大学関係グループの前部附近にいた。

(ホ) 原告今西章は、東京大学原子核研究所技術員で、当日はワイシャツの上にレインコートを着、「東京大学原子核研究所」と書かれた腕章をつけ、一六日午前一時過頃には、東京大学関係グループの前部附近にいた。

(ヘ) 原告渡辺宏一は、東京農工大学の事務職員で同大学教職員組合の書記長であり、当日は背広姿で大研研の一員として行動し、院内交渉団にも加わつたが、一六日午前一時頃に、大研研の待機していた場所から数十メートル正門寄りの地下鉄第一入口で雨宿りをしていたところ、正門方向から地下鉄第一入口の方へ早足でやつてくる警官隊を認めたので急いで大研研の集団先頭附近に復帰した。

(ト) 原告湯川和夫は、法政大学社会学部教授で、当日は法政大学教授団の一員として背広にピケ帽の服装で大研研集団の右側先頭部を占めていた法政大学関係グループの最前列にいた。

(チ) 原告高橋信一郎は、法政大学附属第二高等学校教員で、法政大学教職員組合の役員であり、当日は、ハンチングに背広、レインダスタコートを着用し、赤地に白抜きで「法大教職組」と書かれた腕章をつけ、電気メガホンを携行し、一六日午前一時過頃には法政大学関係グループの中にいた。

(リ) 原告名和利也は、法政大学附属第二高等学校教員で、同大学教職員組合第二高等学校支部役員として当日は背広に登山帽をかぶつて一六日午前一時過頃には法政大学関係グループの中にいた。

(ヌ) 原告山崎昂一は、英文学を専攻する明治大学助教授で、当日は背広にネクタイ、レインコートを着用し、ピケ帽を冠り、バックを左肩にかけ、赤地に「明治大学教職員組合」と白く染め抜いた腕章をつけて同夜一一時半頃約二〇名の集団員とともに南通用門内に入り、その直前の警官隊との衝突によつて負傷した学生を探したが、その姿が見当らなかつたので、大研研集団に戻り一六日午前一時過頃には、明治大学関係のグループの最前列にいた。

(ル) 原告池端功は、和光学園教諭であつて私教連の副委員長として、当日は背広姿で一六日午前〇時頃集団を離れて国会周辺を一巡し、同一時頃集団に復帰し、明治大学関係グループの先頭附近にいた。

(ヲ) 原告幼方直吉は、中国の法律、歴史の研究者で社団法人中国研究所理事であつて、六月一六日午前一時過頃には大研研集団の左側後半部分にあつた民間研究所グループの隊列内先頭部分、即ち大研研集団の中程とみられるところにいた。

(ワ) 原告野原四郎は、中国研究所の中国歴史研究員で且つ東京都立大学講師の職にあり、一六日午前一時過頃には前記民間研究所のグループに属し、大研研集団の右側後半部とみられる隊列の中あたりにいた。

(カ) 原告尾崎庄太郎は、中国研究所の中国経済研究員で、六月一六日午前一時過頃には背広姿でねずみ色のズボンに紺の上衣を着用し、ネクタイを外し、プラカードとかばんを持ち、大研研集団の隊列内、原告幼方直吉の附近にいた。

(ヨ) 原告涼野元は、資源科学研究所研究員で植物生理科学の研究に従事しており、一六日午前一時過頃には「大学、研、研集会」と書かれた腕章をつけ、大研研集団の左側中央部分の隊列内にいた。

(タ) 原告大須賀きくは、財団法人労働科学研究所海上労働研究室に所属する研究員であつて、六月一六日午前一時過頃にはレインコートを着用し、レインハットをかぶり、あずき色に白く「労研」と染め抜いた腕章をつけて大研研集団の中程原告幼方直吉の附近にいた。

レ) 原告野村昭夫は、世界経済研究所所属研究員としてスポーツシャツに背広を着用し、一六日午前一時過頃には大研研集団の右側後半部の民間研究所グループの真中よりやや後方左から二列目にいた。

(ソ) 原告山辺健太郎は、日清戦役外交史の研究者で、ワイシャツ姿で折たたみの傘と原稿の入つた風呂敷包を持ち、歴史学研究会の会員として大研研の行動に参加したが、一六日午前一時過頃には大研研集団の右側後部隊列内にいた。

以上の各事実を認めることができる。

<証拠判断省略>

二  六月一五日から一六日未明にかけての警備活動とデモ隊の動向

(一)  警視庁の警備の態勢と方針

<証拠>を総合すれば以下の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

警視庁が事前に入手した各種情報を総合すれば、六月一五日の第一八次統一行動当日には、都労連三万名その他全学連、各種労働組合及び民主団体、国民会議の地方代表者等を含め、想定約一〇万人に上る多衆の国会に対する集団請願行動が国会周辺、首相官邸及び私邸、アメリカ大使館周辺にかけて行われることが予測され、そのほかに官公庁及び私鉄関係の時限ストも予定されていたが、警備上最大の問題は、国会周辺において如何なる行動にでるかも知れないと憂慮されていた全学連主流派及び反主流派の学生合計約一万七〇〇〇名の集団の動向とそれに対する警備を如何にするかという点にあつた。

一方衆議院議長清瀬一郎、参議院議長松野鶴平は、それぞれ六月一三日付内閣総理大臣宛文書をもつて、同月一五日の予想される事態に対処するため、国会法第一一五条に基づき警察官二〇〇〇名の派出を要求したが、一五日になつてさらに一五〇〇名の増派を要求し、警視総監小倉謙は内閣総理大臣を経由して右の要請に接した。

そこで警視庁では、六月一四日東京都中野区に在る警察大学に警備、公安両部長、両部の関係課長及び係長、交通部の係長、警務部厚生課長、各方面本部長、関係警察署長、第一ないし第五機動隊長らを集め、玉村警備部長を中心に警備会議を開き、六月一五日から一六日早朝にかけての警備対策を協議し以下のとおり警備の態勢及び方針を決定した。

(1)  警備の態勢

(イ) 警視庁本部内に警備総本部を設け、当時警視庁警備部長の職にあつた玉村四一警視長が警備本部長となり、九、三〇〇余名の全部隊を一元的に掌握して全般的警備指揮に当り、当日の重要な警備対象である国会周辺、首相官邸、同私邸、アメリカ大使館に対する警備の指揮とこれと関連する警視庁管下全体の治安対策及び隣接各県との連絡に任じ、警備の推移についてはその都度警視総監の指揮を受ける。

(ロ) 第一方面本部長(事務取扱)藤沢三郎警視長は、方面警備本部を設けて国会周辺の警備に当り、玉村警備総本部長(以下玉村総本部長と云う。)指揮の下に現場における総指揮を司る。

(ハ) 第一方面警備本部長藤沢三郎は、幕僚のうち第二方面警備本部長に首相官邸、第四方面警備本部長にアメリカ大使館、第五方面警備本部長に国会構内、第七方面警備本部長に国会裏側の警備を担当させ、各方面警備本部長はそれぞれ担当地区の警備に当る。

(ニ) 第三方面警備本部長は、南平台の首相私邸の警備に当る。

(2)  警備の方針

(イ) 国会当局の請願取扱方針に基づき、請願が平穏に行なわれる限り、努めて主催者の自主統制に委ね、交通整理を主とする警備に止める。

(ロ) 国会議事堂、首相官邸、同私邸及びアメリカ大使館を警備上の要点とし、これらの施設に侵入されることのないよう、予め所要の部隊を配置し、万一侵入された場合には速かに排除または逮捕等の措置を講じる。

(ハ) 国会警備について警官隊がデモ隊と接触することを極力避け、国会構内の内張り配置とする。

(ニ) 警備の指揮及び部隊の運用については、六月四日の警視総監訓示の趣旨に則り、指揮官は部隊をよく掌握して言動を慎み、感情を抑え、冷静に事態を判断し、事に臨み辛棒強く対処して大局を誤らないように指揮すること、特に警棒は原則として使用しない方針で臨み、万一部隊として使用せざるを得ない状況になつた場合には、指揮官が使用の限界を明示するとともに、収める時期についての判断を適確に行う。

(ホ) 右翼に対しては右翼対策部隊を置き適正な取締を行う。

(ヘ) 不法事犯に対しては全般の状況に応じて現場または事後に検挙することとし、そのための採証活動を活溌に行う。

(二)  六月一五日から一六日にかけての国会周辺の警備実施状況とデモ隊の動静

<証拠>を総合すれば、以下の1ないし8の事実を認めることができ、これを覆すに足る決定的な証拠はない。

1  第一方面本部長藤沢三郎は、六月一四日の警備会議で決定した方針に基づき、第一方面警備本部長に任ぜられ国会周辺、首相官邸及びアメリカ大使館の警備を担当し、現場における最高責任者として指揮を採ることになり、一五日午前一〇時三〇分頃、警備担当地区を一巡し、国民会議の主催するデモ隊が国会議事堂を取巻くように国会周辺に陸続と詰めかけている状況を現認した上国会正門の内側衆議院の小門から約一二メートル距つたところにある指揮官車に入つた。指揮官車には第一方面警備本部長藤沢三郎(以下藤沢本部長と云う。)を初め、同次長山本明夫、その他係長ら五名、本部員数名が常時詰めており、警備実施の打合せのために頻繁に出入する藤沢本部長指揮下の各方面警備本部長、方面警察隊らからの情報や無線車から入つてくる国会周辺におけるデモ隊の移動状況、動静等に関する情報を基礎に、指揮官車内に設けられた有線電話によつて警備総本部及び各方面警備本部長と連絡をとりつつ、警備対策を協議し、無線車から入手する情報については指揮官車内の記録係がこれを記録する仕組になつていた。

2  一五日午前一一時頃から学内集会において国会への請願行動を呼びかけていた都内の大学四〇数校の学生は、国会に向つて行動を起し、午後一時三〇分頃から国会正門前に集結を始め、同三時三〇分頃にはその数約七〇〇〇名以上となつて国会正門前一帯を埋め尽し、同四時頃から、逐次参議院第一、第二通用門、参議院議員面会所、衆議院議員面会所の前を道路一杯となつて行進を続け、国会を一週して同四時三〇分頃正門前に到着した。その後、国会周辺は主流、反主流派学生、国民会議傘下の労組員などが合流して国会を包囲するような状況となり、これらの集団は、シュプレヒコールを繰返えして気勢をあげていたが、同五時前頃学生のデモ隊は、再び前記の経路で行進を始め、同五時過頃、参議院第二通用門前において、右翼の「維新行動隊」と衝突し、双方に負傷者を出すに至つた。しかし、右翼が現場から引揚げた後、学生デモ隊は、再び気勢を上げながら、国会南通用門に向つて行進し、午後五時三〇分頃には右通用門前に続々到着、集結し、国会構内で抗議集会を開こうとの指導者の呼掛けによつて構内へ突入するための行動を開始し、その後は激しい投石を行ない、補強工作物を取り除いて門扉を開き、門の内側に置かれていた警察の阻止車輛六輛の一部に放火、またはこれを破壊するなどの乱暴を行ない、警察側の放水にも怯まず、警官隊と衝突を繰返し、遂に午後八時頃には国会構内に相次で侵入し、同八時三〇分頃には約三〜四〇〇〇名の学生が国会構内で警官隊と対峙の姿勢に入る一方、一部の学生は、前記阻止車輛を次々と門外に引出した。

3  当時南通用門附近の警備を担当したのは、藤沢本部長指揮下の第五方面警備本部長であつたが、同本部長は、これより先午後七時二〇分頃藤沢本部長に対し学生の集団の南通用門から国会構内への侵入の危険に備えるために警備要員の増強を要請し、かつ学生の集団の構内侵入を排除するために催涙ガスを使用してよいかについて請訓をした。これに対し、藤沢本部長は、警備要員の増強については所要の措置を講じたが、催涙ガスの使用については、王村総本部長の意向を尋ねた上、風向の具合、学生の集団が安全に退避するだけの余地が乏しい地理的条件、夜間で混乱が生じやすいことなどを考慮し、不測の事故を防止するためその使用を許さず、夜間であるから、あえて学生の集団の排除を強行することなく、ただ現段階以上に構内への侵入を許さないように現在の阻止線で対峙し、夜の明けるまで現状維持の態勢で臨むことを指示した。

4  午後八時頃になつて、警備総本部は、麹町警察署長からの連絡によつて女子学生一名が南通用門における学生の集団と警官隊との衝突によつて死亡したことを確認した。当時警視総監小倉謙(以下小倉警視総監と言う。)は、東京都議会に出席していたが、知らせを受けて、直ちに警視庁内に戻り、王村総本部長から死者を出すに至つた事情及びその後の諸情勢を聴取し、前記3に述べた現状維持の方針を適切として承認した。

5  その後、国会構内に侵入していた学生の集団は、警察官との衝突によつて学生数名が死亡したかのように主張し、国会正門内で抗議集会を開こうとの指導者の煽動演説に従い、午後一〇時頃から国会構内を通つて正門に赴こうとして、警官隊の阻止線に圧力を加え、これを突破しようとする行動に出たが、警官隊によつて排除されるや、一転して南通用門から正門方向に移動を開始し、その途上国会構内の警官隊に対しては投石を浴びせる一方、南通用門から引出した阻止車輛及び南通用門と国会正門との間に駐車していた警察の輸送車輛合計七輛に次々に放火してこれを炎上させた。かくて、一五日午後一一時二〇分頃には国会正門前に集結した学生の数は約三〇〇〇名となり、これらの学生の一部は、正門の警備についていた警察官に対し頻々と石やコンクリート塊ガラス片等を投付け、国会正門詰所の一部をも破壊し、さらに一一時四〇分頃には、この集団の中から出てきたと思われる五〜六〇名の者が、またも、隣接車の車輪を互に鎖をもつて結び、各車の前下部を正門の門柱とワイヤロープをもつて繋ぎ、後部に防護板を備え付けたうえ前部を正門に向けて並べられていた一三輛の警察の阻止車輛のうち国会正門に向つて左側の一輛の繋留ロープを切断し、揺振つてこれを引出し、横転させて放火炎上させるに至つたので、正門外にいた警察の車輛防護部隊も構内に退避するの已むなきに至つた。しかるに、前記阻止車輛は、その後も引続き、左側から次々に引出され、横転放火されて炎上し、その焔は路面に流出したガソリンに引火した火とともに一団の火焔となり、車輛が炎上する度にデモ隊の中から上る拍手、喚声は爆発音と入り雑り、時折襲う降雨もあつて、正門前は名状しがたい惨状を呈し、その状景は、その場にいた法政大学の学生約七〇〇名を「この光景は見るに忍びない。」とて全員を現場から去らしめた程であつた。このようにして、当時正門前附近は異様な空気に包まれ、興奮した学生は、ますます気勢を上げて投石と放火を続け、一六日午前一時過頃には、阻止車輛は残すところ三、四台となつた。その頃学生を主とすると見られる二〇〇〇名以上のデモ隊の大部分は、正門前からチャペルセンター前に後退して隊形を整えており、他の一部は、それぞれ恩給局前と尾崎記念館前に後退して正門をとりかこむような形となり、恩給局前及び尾崎記念館前の者を併せ、正門附近には約六〇〇名を残すだけで正門前は穴があいたような状況となつたが、なおも正門前に走り寄り、警官隊の控えている国会構内に向つて投石する者が跡を絶たず、さらに一部の者は、正門の門扉にロープを掛けて引張り、門扉を引倒そうとする暴挙に出た。

6  一方藤沢本部長は、南通用門から正門前に移動した学生の集団の暴状を知つて正門前の情勢がますます緊迫を加えるものと判断し、これに備えて警備の強化を図るため、既に同日昼間から国会構内の警備に就き、投石等により多くの負傷を受け、疲労の色が見えていた第二機動隊を交代させることとし、当日アメリカ大使館の警備に当つていた第一、第三、第五の各機動隊合計約一五〇〇名を、一六日午前〇時一〇分過頃国会に転進させ、直ちに正門内側で警備に就かせた。藤沢本部長とその幕僚幹部との間には正門前において投石や放火を恣にするデモ隊の国会構内への侵入を阻止し、かつこれを解散させる方法について終始検討が行なわれてきたが、第一、第三、第五機動隊の国会到着とともに、直ちに第五、第七方面警備本部長のほかに、右各機動隊長をも加えて前記指揮官車内において正門前のデモ隊の排除方法について協議が行なわれた。そして、右協議の結果に基づき藤沢本部長は、玉村総本部長に対して電話で正門前の事態は、もはや放置できない段階に立ち至つたこと、もしデモ隊の構内侵入を許すようなことになれば、激しい衝突が起つて学生と警官隊の双方に負傷者を出すことは必定であり、深夜のこととて議事堂内にまで侵入を許すことにもなりかねないから、抵抗を抑え、しかも負傷者を出さないでデモ隊を解散させるためには催涙ガスの使用と警察官の部隊行動とを併用する必要があることを現場の意見として上申した。これについて、玉村総本部長は、小倉警視総監の意向を尋ねたところ、警察官の部隊行動を併用せず、催涙ガスの使用のみによつてデモ隊を解散させることが最も望ましいとの答であつたので、その旨を藤沢本部長に伝えて再考を求めた。そこで藤沢本部長は、協議の上折返し玉村総本部長に対し、催涙ガスを使用するのみではデモ隊を若干後退させることができる程度で到底解散させることはできず、正門を突破される危険は依然として続くから、部隊を出動させて排除する方法を併用する必要があるとの現場の意見を重ねて上申した。ここにおいて玉村総本部長は小倉警視総監の意向を確めた結果、既に学生側に一名の死者を出し、負傷者は数百名に達している模様であり、これ以上の負傷者を出したくないから、警棒を使用しないでデモ隊を排除する方法を考えてもらいたいとの希望があり、それは、「車は金で買えるものであり、要はデモ隊に国会構内に入られないように警備することにある。」との警視総監の意見とともに、藤沢本部長に伝えられた。そこで藤沢本部長は、重ねて現場で協議した結果に基づき玉村総本部長に対し、警棒を使用しない方針には賛成であるが、如何ような事態が起るか予測出来ないから、絶対に使用しないとは断言できないと連絡してきたので、結局警備総本部としても、もし時機を失すると却つて事態の混乱を招くことを憂慮し、一六日午前一時過になつてようやく第一方面警備本部の方針をデモ隊の国会構内への突入を回避するための必要已むを得ない措置として承認するに至つた。そして、これらの折衝は午前一時一〇分頃まで前後約一時間に亘り継続して行なわれたものである。

7  そこで、藤沢本部長は、直ちに指揮官車内において、「催涙ガスの使用と同時に部隊が出動してデモ隊を排除する。第一、第三機動隊は正門前からチャペルセンターにかけてのデモ隊を三宅坂方向に排除し、第五機動隊は正門前から恩給局前にかけてのデモ隊を人事院ビル方向へ排除せよ。」との命令を発した。右の命令は、指揮官車内にいた第一、第三機動隊長は、直接これを受領したが、末松第五機動隊長は、当時指揮官車内におらず、第一方面警備本部次長山本明夫から第五機動隊の指揮官車附近において伝達された。末松機動隊長は、右命令を受けると、直ちに右指揮官車に戻り、待機していた第五機動隊の副隊長及び中隊長らに対し、「五機前へ。」と命令し、自ら先頭に立ち急ぎ足で前進を開始した。当時第五機動隊の副隊長及び各中隊長ら幹部の者は、警備本部の指揮官車内における警備実施の方針についての論議の模様を末松隊長から知らされていたため、部隊出動に際して第五機動隊は、恩給局前のデモ隊を排除すべきことを知つていたが、他の隊員は排除の対象及び方向を確知していなかつた。

第五機動隊が前進を開始した直後一六日午前一時八分頃、麹町警察署長名によつて催涙ガスを投擲するから用のない者は解散するようにとの警告が三度にわたつて放送され、その警告が終るのと殆んど同時に正門前附近に催涙ガス筒が投擲され、末松第五機動隊長は、正門脇の衆議院側詰所の手前を右折して正門南脇土手の前まで部隊を進めた。

8  第五機動隊は、当夜の編成順に従つて、第二、第四、第三、第一中隊の順序で出動した。

(イ) 第二中隊一〇一名は、中隊長井上善正指揮の下に、出動に際し同中隊長から「まとまつて行け、ばらばらに行くな。」との注意を受けた上、「前へ。」の号令とともに中隊長を先頭にして国会構外へ進出を開始し、一部の者は土手を駈下り、(出動地点は原判決添付細図1のとおりである。)恩給局前道路上に出たとき、末松第五機動隊の「止れ。」という命令を聞いた。この命令は、末松機動隊長が土手の上に立つて土手下の道路の状況を見たところ、恩給局前道路上にいた三〜四〇〇名のデモ隊は催涙ガス筒の投擲により南通用門の方向へ移動する態勢にあつたが、意外にもなお眼下に相当多数の者がいるのを認めたので、接触の危険を避けるために発したものである。しかし、そのとき、直前まで時折激しく降つた雨のために土手の斜面が滑り、隊員は後に続く者に押されて滑り落ちる状態であり、他方同中隊は、土手を下りるときからデモ隊の投石にさらされ、道路上に進出した隊員は旗竿やプラカードをもつて殴り掛つてくるデモ隊の反撃を受ける状況であつたので、同中隊長は引返しもならず、またその場で部隊を停止するときは隊員に多くの負傷者を出す虞れがあつたので、同中隊長は、隊伍を整える暇もなく、既に道路上にある同中隊員の一部とともに恩給局側のデモ隊と接触、排除を開始し、道路上に進出してきた他の中隊の隊員もこれに加わつた。これを見た末松機動隊長は、デモ隊を早く退散させるために、電気メガフォンで「事態は騒擾と認める。関係のない人は帰つて下さい。」と呼び掛け、また部隊に対しては、「事態は騒擾と認める。抵抗する者は全員検挙せよ。」と叫び、さらに「ガスを打て。」と連呼した。このような状況のもとでデモ隊のうちには恩給局の塀を乗り込えて構内に逃げ込んだ者もいたが、その大部分は急ぎ南通用門方向へ逃げ出したので、第二中隊はこれを追い、後退しつつ、なお馬声を浴びせ、同中隊の先頭に対し投石し、竹竿や棒切を振つて抵抗する者に対してはその抵抗を排除し、これを圧出しつつ前進し、地下鉄第一入口附近に到着した。当時南通用門外には約一〇〇名の学生のデモ隊がおり(この事実は原審証人畠山英高の証言及び前掲丙第三四号証によつて明らかである。)、地下鉄第一入口附近にも五〇名を下らないと思われるデモ隊の群がおつて、恩給局前から追われて逃げてきたデモ隊もこれに合流する形となつた(末松機動隊長はこれを全部恩給局前から逃げたデモ隊だと考えた。)ので、南通用門手前に進出していた末松機動隊長は、暗夜のためその数を確認することはできなかつたが、前方衆議院車庫前附近に望見されるデモ隊までを加えるとその人数は五〜六〇〇名にも達すると判断し、しかも前面のデモ隊は、警官隊に直面し、反撃の態勢にあるものと認めたので、警官隊が坂下にいるという地形上の不利も考え合せ、右のデモ隊と接触すれば多くの負傷者の出ることを虞れ「前へ行く者はさがれ。」と命令した。

そこで中隊の先頭にあつた井上中隊長は、南通用門前の丁字路で一旦部隊を止め、後退しようとしたが、前後方から罵馬とともに激しい投石を受け、井上中隊長自身が右後頭部と脳部を負傷したほか、隊員の中にも数名の負傷者を生じ、第二中隊の標識灯も破壊され、さらに前面道路中央部にいた約一五名位の者は一団となつて喚声をあげ、棒切れを投付け、プラカードや竿などをもつて第二中隊員めがけて突込んできたので、同中隊第一小隊長大塚秋雄以下五、六名の隊員がデモ隊の反撃を封ずるべく、一部の者は警棒を抜いてこれに対抗したような状況にあつて、部隊を後退させることができなかつた。このとき、第二中隊の右側を森田高義指揮下の第五機動隊第四中隊が首相官邸方向に進出して行つたので、井上第二中隊長は、第四中隊に遅れないように再び中隊を前進させ、前面のデモ隊を追つた。そして、そのとき末松機動隊長の命により、大蔵省方向に逃げるデモ隊を追つて南通用門前丁字路を左折して霞ケ関交番方向に進んだ一七名の隊員を除く第二中隊の主力は、第四中隊の左側即ち道路左側を進み衆議院車庫附近に差し掛つたとき、車庫の塀寄りに旗やプラカードを立て数カ所で焚火をしているデモ隊の集団(前記一(一)2に認定したところを対照すればこれが大研研であると認められる。)があるのを認めた。そのデモ隊は、警官隊が接近すると、前部にいた者はスクラムを組み、または旗竿を横に構えて警官隊に向い突入を意図するかに見え、中には竹竿やプラカードを突出し、振上げ、またこれを投付けたりする者があり、任意に退散しないのみか抵抗の態度を示し、かつまた右デモ隊の集団及びその周辺からは警察官に対し、「馬鹿野郎」、「人殺し」等の悪罵を浴びせ、投石をしてきたので、警察官のうちにも、警棒を抜いてこれに対抗しようとする者があつたが、遂に左側前記車庫寄りにおいて、双方が衝突し、竹竿やプラカードとの打合に始まつて激しい揉み合い状態となり、前記車庫寄りに対峙していた第二中隊は、このデモ隊を首相官邸方向に圧出しつつ前進し、首相官邸前十字路を左折、特許庁方向に向い約五〇メートル進んだところ、そのとき末松機動隊長の命令があつて停止した。

なお、第二中隊第一小隊長大塚秋雄外六名は、中隊主力より先行して第四中隊の先頭と殆んど同時に前進し、首相官邸前道路中央に特許庁方向に向つて停止した第四中隊の左側衆議院車庫寄りに停止し、第四中隊及び少し遅れて到着した第三中隊とともに永井第五機動隊副隊長の指揮下に入り、これらの部隊と行動を共にし、デモ隊を追つて特許庁前に至り、そこから引返し、首相官邸十字路附近で第二中隊主力と合流した。

(ロ) 第四中隊一〇〇名は、中隊長森田高義指揮の下に第二中隊に続いて同中隊よりやや右に寄つた地点(原判決添付細図1のとおりである)から土手を下りて恩給局前道路上に進出したが、そのとき恩給局の塀の上で悪罵を放ち、プラカードを振つて抵抗する一〇名位のデモ隊が見られたほかは、南通用門に向い五、六〇メートル先を第二中隊が駈けており、五、六〇名のデモ隊が追われるように逃げて行く姿が認められるに過ぎない状況であつた。第四中隊は、道路上に下り立つと、直ちに隊形を整えた後、第二中隊の後を追つて南通用門方向に坂を上つて行つた。

第四中隊長森田高義は、南通用門前の丁字路附近に至り、地下鉄第一入口から国会側旧議員面会所の前あたりにかけ、道路上一帯に道路を斜に横断するような形でワイシャツ姿の多い学生と覚しき多数のデモ隊が雑然と警官隊に向つて立つており(森田は国会正門の方から追われてきたデモ隊でその数を五〜六〇〇名と判断した。)五、六本の旗が動いているのを認めたが、そのとき末松機動隊長の停止命令を聞き既に丁字路に達していた第二中隊の位置より若干手前すなわち第二中隊の右側後方に一旦中隊を停止させた。そのとき、前面デモ隊の一部が第二中隊の先頭に対し旗竿等で殴り掛つているのを目撃し、第四中隊に対しても投石をしたので、森田中隊長は、隊形を一応整えるや、再び前進を命じ、第二中隊の右側道路の中央部分を進んでデモ隊に、解散せよと呼び掛け、これに応じないのを見え大声で排除を命じたところ、逃げ出したので、これを追つて南通用門を経て首相官邸の方向へ進んだ。すると、前方に焚火を囲んでいる約五、六〇名のデモ隊がおり、その殆んどは、同中隊が五、六メートルの距離に接近すると一部の者は塀を越えて衆議院車庫の構内に、多くの者は首相官邸の方向に逃げ、逃げ残つた五、六名の者は部隊がさらに近付くと、焚火の燃さしを投げつけて逃出した。同中隊の隊員数名はこれを検挙しようとして隊列を離れようとしたが、森田中隊長は、これを制して隊列に復帰させ、投石による被害を防ぐため、デモ隊との間隔を詰めるべく、早足で進み、旧議員面会所と相対する衆議院車庫附近に差し掛つた。すると前面にデモ隊の集団があり(前記一(一)2に認定した事実と考え合わせるとこれが大、研、研であると認められる。)衆議院車庫寄りでは既に数名の警察官とデモ隊との間にプラカードと警棒の打合が行なわれている光景が目に入つた。

そこで森田中隊長は、隊列が整わないまま右のデモ隊と接触すれば無用の混乱が生ずると考え、デモ隊の約一〇メートル手前で一旦中隊を停止させ、隊列を整えようとしたところ、前面のデモ隊の中からたすきをかけた指揮者らしい者二名が歩み寄り、その中の一人は、白い指揮棒を持つた森田中隊長に対し、「指揮者は誰か、君か。」と呼びかけた。しかし、このとき既に、デモ隊と左側の警官隊との衝突が拡大し、デモ隊からの投石もあつたので、同中隊長は、そこで部隊を停止させることは、事態を長引かせ混乱を増す原因となるものと判断し、右の指揮者らしい者に向つて前面のデモ隊を早く解散させるように告げただけで取合わず、左側のデモ隊を取り残したまま前面のデモ隊を排除すべく、部隊を進め道路のほぼ中央を進行した。前面のデモ隊は、当初はプラカードを突き出す等若干の抵抗を示しながら、部隊の進出につれて後退をして行つたので排除の速度もさほど大きくはなかつたが、そのうち、抵抗を止め、後退を続けたので、進出の速度も早まり、首相官邸前の十字路に達したときには、第四中隊が先頭になつていた。そこで森田中隊長は、孤立化するのを避けるため、首相官邸前道路中央に特許庁方向に向い一時停止し、デモ隊をどこまで排除するかの指示を待つこととしたところ、部隊の停止と同時にデモ隊も後退を止めたので、再び約三〇〇名と見られるデモ隊と対峙する形となり、ここでも前後よりするデモ隊の投石が行なわれた。

第四中隊とほぼ時を同じくして第二中隊の一部が、その後間もなく第三中隊が相次いで第四中隊の傍に到着し、第二中隊は第四中隊の左側、第三中隊は第四中隊の右側に並列の隊形で一時停止し、指示を待つていたところに、第五機動隊副隊長永井俊男が現われて先頭に立ち、前進命令を発し、デモ隊と若干押合をした後やや急な坂を下り、逃げるデモ隊を圧するような形で特許庁前まで前進したが、途中デモ隊の逃足が次第に早くなり、グランドホテル前附近からは駈足で逃げ、投石も疎になつた。なお第四中隊の隊員の中にも大蔵省に至る方向にデモ隊を追うて南通用門前の丁字路を左折し、霞ケ関交番の方向に進み、首相官邸の方向に向わなかつた者一名がおり、その余の隊員も、中隊長と行動を共にして特許庁前まで進んだ者は中隊の約三分の二で、約三分の一は衆議院車庫前と特許庁との中間にいたものと認められる。

(ハ) 第三中隊九七名は、中隊長大栗元市指揮の下に、第二、第四中隊に続いて、第四中隊の進出地点よりやや右寄りの地点(原判決添付細図1のとおりである。)から土手を下りて恩給局前道路上に進出した。同中隊長は、急ぎ隊列を整えようとしたが、部隊の集合状況が意の如くならなかつたので、おおむね、二個小隊位の人員が集つたところで、自ら部隊の先頭に立ち前進を始めた。その前後における附近の状況は、他の中隊員によつて規制せられている二〇数名の者が認められただけで、投石も受けず、直ちに標識灯を掲げて南通用門方向に進む先行部隊を追い、途中時折投石を受けたが、南通用門の手前に達したとき、隊形を整えるためと附近の警戒のために一時停止した。そのとき、南通用門前附近で、他の部隊が首相官邸の方向にデモ隊を圧出し、デモ隊が警官隊と入り乱れて続々退却しつつある状況が認められ、さらにその後方首相官邸までの道路上には、旗を立てた多数のデモ隊(大栗中隊長はその数を約五〇〇名と判断した。)があり、これを先行した警察官の部隊がなかば前方から包囲しているような状況が見え、緊迫した状勢にあるもののように認められた。当時地下鉄第一入口附近にも学生や労働者風の者約一〇〇名が群つており、衆議院車庫前附近の道路上にも数ケ所において焚火を囲んでいる三〇名位の人の姿も見掛けられたが、地下鉄第一入口附近から散発的に投石があつた程度で積極的に抵抗する者はなかつたので、これらとの接触を避け、第三中隊は、先行した部隊に協力するため、急いで前進し、途中デモ隊との接触もなく、首相官邸正門前附近に達した。第三中隊は、このときデモ隊と対峙中の第四中隊を認め、その右側に出てこれと並び、ここに初めてデモ隊と近接し、隊伍を整えた。当時第四中隊と対峙していたデモ隊は、首相官邸正門前の道路上に広がり、約三〇〇名と見られる集団であつたが、その附近には記者会館寄りにもデモ隊の群があり警官隊は前面及び背後から投石を受け、第三中隊の標識灯もこれによつて損傷した。大栗中隊長は、永井機動隊副隊長の指揮下に入り「前へ。」の号令とともに第三中隊の先頭に立ち「帰れ、帰れ。」と呼ばわり、同中隊長の正面の赤旗を持つた背の高い白シャツ姿の男を圧したところ、その男は後退し、それにつれてデモ隊も後退するように見られたので、一旦部隊を止め、指揮棒をもつて部下隊員が前に出過ぎてデモ隊に巻込まれないように制しながらデモ隊と若干の距離をおいてこれを特許庁方向に圧しつつ、道路の右側を特許庁前の都電通りまで進んだが、そのデモ隊による抵抗はなく、散発的な投石が見られるに止つた。なお第三中隊の隊員の中にも大蔵省に至る方向にデモ隊を追つて南通用門前の丁字路を左折し、首相官邸の方向に赴かなかつた者八名がおり、その余の隊員も中隊長と行動を共にして特許庁前まで進んだ者は七二名で、その他の者は衆議院車庫前と特許庁との中間にいたものと認められる。

(ニ) 第一中隊九九名は、中隊長松田善次郎指揮の下に第五機動隊の最後尾の中隊として他の各中隊より最も右寄りの地点(原判決添付細図1のとおりである。)から土手を下りて恩給局前道路上に出、隊列を整えるために一時停止したが、そのときは、恩給局塀際で他の中隊によつて規制せられている一〇数名の学生の姿が見られたほかは、四、五名の警察官が傍を駈けて通り、さらにその前方デモ隊の残りと見られる数十名の人影が南通用門方向に走つて行くのが認められた程度で、大勢として排除は終つていた。道路上で六列縦隊に隊形を整え終えた同中隊は、前方の状況は夜分のため、定かでなかつたので、早足で緩い坂道を南通用門方向に上つて行き、南通用門の手前で一旦停止し、遅れたもののないことを確かめた後、再び先行する部隊を追つて首相官邸方向へ進むと、左手の地下鉄第一入口附近から衆議院第二議員会館周辺にかけて、旗やプラカードを持ち、相当の抵抗をし、他中隊の規制を受けていた一〇〇名近いデモ隊があり、第一中隊もこのデモ隊から罵声と共に石や棒切などを投付けられ、隊員二人が負傷した。しかし、当時先行部隊の姿は見当らず、少数部隊でこのデモ隊に立向うときは、隊員から犠牲者を出すことを虞れた松田中隊長は、このデモ隊との接触を避けて衆議院寄りの道路上を前進し、デモ隊との接触もなく首相官邸前の十字路に達した。ところが首相官邸前十字路では、右手の記者会館及び衆議院議員面会所附近にかなり多数のデモ隊がおり、これから罵声を浴びせられ、投石等を受けたので、これを排除するために十字路を右折したとき末松機動隊長が電気メガフォンで「五機はこつちだ。」と呼んでいる声を聞き、反転して特許庁方向へ下る坂道を六列縦隊で坂下門まで進んだところで末松隊長の命令で停止した。右のように第一中隊は、第五機動隊の最後尾を進んだので中隊の主力としては直接デモ隊と接触ないし衝突するところはなかつた。なお、第一中隊の隊員の中にも国会正門方向に向つた一名の隊員のほか他の中隊に紛れ込み、これと行動を共にした者七名があつたが、中隊主力の行動の範囲は坂下門附近までであつたと認められる。

以上に認定した事実によれば、第五機動隊は隊長末松実雄の命により第二、第四、第三、第一中隊の順序で出動し、国会正門に向つて左側の土手を下り、恩給局前の道路上に出た。当時その附近にいたデモ隊はその数三〇〇名ないし四〇〇名と見られ、デモ隊は既に南通用門方向へ移動する大勢を示していたが、道路上に進出する前後を通じて第二中隊の先頭は投石や旗、プラカード等により相当の抵抗を受けた。井上第二中隊長は、道路上に下り立つた頃末松機動隊長の「止れ。」という命令を耳にしたが、直前までの降雨で土手が滑り、隊員は後続の隊員に押されて土手を滑り落ちる有様であつた上に狭い場所を植込を潜り抜けて出る不便もあつたので、後続の隊員の集合を待つ暇もなく、危険を避けるため直ちに抵抗を抑圧してデモ隊の規制に当り、中隊の主力は逃出したデモ隊を追い、道路脇に停止していた者や逃げ遅れたデモ隊を取り残したまま前進した。同中隊が南通用門前丁字路に達したとき、二番目に出動した第四中隊は、第二中隊を追つて既に南通用門丁字路の手前に迫つていたが、南通用門前には約一〇〇名の学生の集団がおり、また地下鉄第一入口附近にも労組員と思われる約五〇名のデモ隊がいて南通用門方向から逃げてきたデモ隊と合流した形となり、相当激しい投石を加え、竹竿やプラカードの類をもつて抵抗したので、井上第二中隊長は、道路左側、森田第四中隊長は道路中央を首相官邸に向つて部隊を進め、前面のデモ隊を排除し、その逃げるのを追つて前進し、他方南通用門前丁字路から大蔵省に至る方向に避譲したデモ隊は、末松機動隊長の命によつて第二、第四中隊及びこれに続いた第三中隊の隊員の一部が霞ケ関交番附近までこれを排除した。首相官邸方向へ向つた第二、第四中隊のうち最初に大研研の集団附近に達したのは、第四中隊の主力で、第二中隊は先行した数名の隊員のみに過ぎなかつたが、これも主力が間もなく到着したので、第二、第四中隊は、衆議院車庫前道路上中央から左側車庫寄りに位置していた大研研の集団を前面より包囲するような形でこれと相対した。その間、原告山口啓二らが前方に進み出て森田第四中隊長との間に前記のような言葉の遣り取りがあつたが、そのとき既に左側車庫寄りで警官隊と大研研の集団の一部との間に警棒と竹竿、プラカードとの打合が始つて両者が衝突し、激しい揉み合いの状態となつていたので、第四中隊の主力は、揉み合つている左側を残したまま、抵抗の殆んど見られない道路中央を前進し、首相官邸前十字路を左折したときには、第五機動隊の先頭に立ち、第二中隊の少数の隊員がこれに次ぎ、間もなく後続の第三中隊の主力が到達した。これら第三、第四中隊の主力及び第二中隊の少数の隊員はデモ隊を排除して特許庁前まで赴いたが、第一中隊及び第二ないし第四中隊の残りの者の行動した範囲はこれらの者が末松機動隊長によつて停止を命ぜられた首相官邸前から特許庁前に至る途中の坂下門辺までである。以上の経過的事実が明らかであり、従つて大研研と当初接触した警察官は第二及び第四中隊に属する警察官であつたが、その後は各中隊とも後段認定の原告らの受傷した地点附近までデモ隊の規制に当つたと見られるので、原告らと接触した警察官の所属中隊名及び氏名を明らかにすることはできない。

三  第五機動隊による大研研の排除及び原告らの受傷の状況

先に認定した一六日午前一時過頃における大研研及び原告らの位置と第五機動隊のデモ隊排除の方向及び<証拠>を総合すれば、第五機動隊は藤沢本部長の命令を受け、恩給局前のデモ隊を排除すべく、一六日午前一時一五分頃国会構外へ進出し、路上のデモ隊を排除しつつ、恩給局前から衆議院車庫を経て首相官邸前十字路に至る途上において衆議院車庫前路上にいた大研研集団及び該集団に属し、前認定の地点にいた各原告と出会つていることは疑いのないところであり、<証拠>を総合すると以下の各事実を認めることができこれを覆すに足る証拠はない。

(一)  大研研と警察官との接触

先に認定したとおり、原告山口啓二は、大研研の声明文案を諮るべく、六月一六日午前一時二〇分頃、衆議院車庫事務所前の大研研の集団のところに戻り、集団の先頭でその附近の者に取囲まれて声明文案を読み始めたとき集団の中から「右翼だ。」という呼声が起つたと思う間もなく、大研研の左側国会寄りを約二、三〇名の学生の一団が首相官邸方向に駈抜け、続いて鉄かぶと姿の警官隊が現われ、スクラムを組めという声が聞えたとき、原告山口は、大学、研究所、研究団体の集団であることを説明すれば別に問題は生じないと考え、五、六歩前に出て「ここは教授団だ。」と叫んだ。また大研研の総指揮畠山英高は、同集団の前に出て進んでくる警察官に向い、大手を広げて立止るように制し、一、二メートルに接近した白い指揮棒を持つた警察官に向つて「ここは大学教授団で学生ではない。」という趣旨を数回呼掛け、集団の先頭にいた原告山崎昂一、同浜本武雄、同森章及び明治大学の笠原助教授らも、これに同調し学生の集団でない旨をこもごも叫んで警察官の注意を喚起した。警官隊は、そのとき一時停止したが、たちまち大研研の右側、車庫寄りから警官隊との接触が始まり、それは全面に拡大した。

(二)  原告山口啓二の受傷

原告山口啓二は、先に(一(二)、他の原告についても同じ。)認定したとおり、大研研の集団の前車庫寄りの地点で警官隊に対し、右集団が、「教授団であつて学生のデモ隊ではない。」と叫んだとき、瞬前面の警官隊は立止つたけれども、次一の瞬間に同原告の右側(国会正門に向つて、以下同じ。)で警官隊が大研研の集団に接触するのと殆んど時を同じくして同原告の前で一旦停止した警官隊の一団も同原告の方に押寄せ、同原告が「乱暴はやめろ。」というと、一人の警察官は「この野郎。」という罵声とともに同原告の胸倉を捉えて左足特に膝の下部の辺を数回強く蹴上げ、逃げ出した同原告の背中に背後から警棒らしい鈍器ようの物で打撃を加えた。

以上の警察官の行為により同原告は、主な傷害として治療一二日を要するものと診断された左肩胛間部に五センチ×八センチ、左下肢上部外側面に一五センチ×一〇センチの皮下出血による変色を伴う打撲傷及び左膝に一センチ四方程度の皮膚外面潰瘍と周辺部に擦過傷を生じ、快癒後も瘢痕を残した。

(三)  原告清水義汎の受傷

原告清水義汎は、先に認定したとおり大研研を衆議院議員面会所の廊下へ誘導する目的で大研研の集団のところへ戻り、明治大学関係グループの先頭列外にいたとき、一団の学生らしい者が「警官がきた。」と叫びながら走つてきたので、教授団が学生と誤認されて混乱に巻込まれる危険があると考え、後向になつて集団に向い「かたまつて手を組め。」と指示し、それに従つてスクラムを組んだ集団の者と前進してきた警官隊との間に挾まれ警察官に背後から小突かれつつ、首相官邸の方向へ移動している中に集団の後部が崩れて逃出したので、同原告も逃げようとしたが前に転倒した者などがいたために、敏速な動きがとれず、首相官邸前衆議院車庫角の木柵(原判決添付細図ⅡBの地点)に押しつけられ、背後から棒状のもので肩から背中にかけ、さらに頭部を守るために後頭部に当てていた手のうち右手上腕を殴打され、これを逃げようと木柵をよじ登つて衆議院車庫内に入ろうとしたところを警察官によつて両足を持ち上げて構内に転落させられ、一瞬気を失つた。

以上の警察官の行為により同原告は少なくとも全治一〇日を要する左肩部、背部、右上腕部打撲傷を受けたことが認められる。<証拠判断省略>

(四)  原告福井正雄の受傷

原告福井正雄は、先に認定したように原告山口啓二が大研研の声明文案を読み始めたときに、大研研集団の左側先頭部東京大学関係グループの左端中央附近にいたが、前方の状況が異常であつたので、見遣つたところ、前面の道路一杯に近付いてくる警察官の姿が見え、やがて集団の左側国会寄りにも進出してきたので大研研の集団が学生のデモ隊とは異なることを説明しようと考え、その位置を離れ、同原告の前面の警官隊の方に歩み寄り、右手に警棒を持つた一人の警察官に対し、「我々はこうして立つているだけだ。退けというなら退きますよ。」と言つた。すると右の警察官は、この言葉に一瞬立止つたが、次の瞬間国会側道路から飛出してきた私服の警察官らしい男が遮るように、激しい口調で何事かを叫んだとき件の警察官は態度を一変し、その後方にいた警察官とともに同原告に立向い、そのうちの一人は、同原告の片手を掴んで警察官の隊列の中に引きずり込み、その手を振りもぎろうとする同原告が警官隊の中に倒れて尻餅をつく格好になつたところを警棒らしい固いもので頭部をはじめ全身を何回となく殴打した。同原告は、そのため瞬時は身動きもできなかつたが、警察官の「こいつ逮捕だ。」という声とともに殴打が止んだ際を見て逃出し、逃走中の大研研集団の後を追い、警官隊に混じつて首相官邸前十字路の方向に懸命に走つたところ、「貴様煽動しやがつたな。」というような声とともに後から襟首を掴んで引倒され、さらに同様な暴行を二回繰返された後、首相官邸前十字路を左折し、総理府の門まで逃延びた。

以上の警察官の行為により同原告は少くとも全治二〇日を要する顔面、頭部各裂創、左額部打撲傷を被り、前後三回治療を受け左頬裂創については、二針縫合が行なわれたほか、上前歯二本が折れ義歯で補うこととなつた。

(五)  原告山崎昂一の受傷

原告山崎昂一は、先に認定したとおり大研研の集団の前部中央を占めていた明治大学関係グループの最前列にいたが、前面に警官隊が迫つてきたとき、「腕を組め。」との声を耳にし、危険を感じ、周囲の者(左側は原告浜本)とスクラムを組んだ。警官隊は、六メートル位前方に停止したが、前面の警官隊の指揮者と見られる者から「総員逮捕。」の声があり、警官隊は、警棒を抜いて押掛つてきたので、一旦はこれを支えたが、支えきれず、じりじり後退するうち、スクラムが解け、道路の左側衆議院車庫寄りを首相官邸の方向に逃出した。そのとき、同原告は後方から頭、肩及び右上腕部を叩かれ、振返つたところを「この野郎。」という罵声とともに背中を一撃され、その間後頭部に当てていた右手にも多くの打撃を受けた痕跡があつた。同原告は、首相官邸方向に向い、道路左側を逃走したが、衆議院車庫脇の塀の附近に達したとき、木柵(原判決添付細図ⅡのB点)を乗越えて衆議院車庫構内に逃込もうとしている者を背後から警棒で殴打している警察官の姿を認めたので、衆議院車庫側に沿つて逃げることは危険であると考え、方向を転じ道路の中央部辺に出ようとしたところ、いきなり後頭部を警棒のような物で殴られ、一瞬気が遠くなるような感じがしたが、直ちに特許庁の方向へ逃延びた。

以上の警察官の行為により同原告は後頭部に全治約一〇日余を要する長さ二センチメートルの裂傷を負つたほか、全身十数カ所に打撲傷を受け、内出血を生じた。

(六)  原告浜本武雄の受傷

原告浜本武雄は、先に認定したとおり前記明治大学関係グループの最前列で原告山崎昂一の左隣にいたが、「スクラムを組もう。」という声で原告山崎と腕を組んだ。そのとき、「総員逮捕。」という声と同時に、前面から迫つてきた警察官にいきなり右側頭部を警棒で殴打され、スクラムを組んだまま後退し、およそ一〇メートル近く後退したところで強い一撃を頭部に受け左手に所持する腕を取り上げられそうになつたので、これを防ごうとした際スクラムが解けた。その際、一人取り残された形となつた同原告は何かのはずみで転倒したところを警察官により背中、右大腿部外側を殴られたり、靴で蹴られたりした。その後同原告は原判決添付細図Ⅱの車庫Cの横の塀の脇にいたところを警察官に促され、塀に沿つて首相官邸前十字路まできた。しかしその先一帯は警官隊とデモ隊らしい者とが入り乱れ、混乱が続いていたので柵(原判決添付細部ⅡのB点)を越えて衆議院車庫内に逃れた。

以上の警察官の行為により同原告は、通院約一週間を要する右側頭部、左肩部及び右大腿部打撲傷を受けた。

(七)  原告森章の受傷

原告森章はさきに認定したとおり、前記明治大学関係グループの最前列におり、原告浜本から数えて五人目であつたが、警官隊が前面に現われたとき、左右の者と腕を組合つた。警官隊は、左隣の笠原明治大学助教授の「ここは教授団だ。」との声に同原告らの前面に一瞬立止つたが、直ちに押寄せてきたので徐々に後退するうちにスクラムが解け、同原告は警官隊に背を向けて逃出した。それと同時に警察官の一団が背後から同原告に迫り、その腕をねじ曲げるように掴み、腕章を見て「明大だな。」といい乍ら腕章をもぎ取り、衆議院車庫側の木柵に沿い首相官邸前十字路に至るまで背後から同原告を小突いて追立てたが、首相官邸前十字路を左折し約一〇メートルの地点で、警察官によつて警棒のような物で左後頭部及び右肩部を殴られたので、総理府の塀際を特許庁方向に逃げたが、途中水溜に二、三回足を突込んだ。

以上の警察官の行為により、原告森章は、治療一〇日要する頭部裂創及び右肩打撲傷を負い、頭部裂創は一針縫合の治療を受けた。<証拠判断省略>

(八)  原告新井浩の受傷

原告新井浩は、さきに認定したように東京大学関係のグループの先頭から三、四列目辺におり、原告山口啓二が声明文案を読み始めた頃前に出て同原告の附近にいたが、集団の中から「右翼がきたぞ。」という声とともに「スクラムを組め。」との声があり、元の位置に戻りスクラムを組んだ。そのとき、眼の前に警官隊の姿が映り、これに向つて「われわれは教授団であつて、学生デモ隊ではない。」と訴えている原告山口啓二と畠山英高の声を聞いたが、原告山口啓二が突飛ばされるのを見たので、「暴力をやめろ。」と叫んだところ、一人の警察官が「こいつだ。」と指さすと、別の警察官が警棒で同原告の左側頭部を一回殴打した。そこで、スクラムは崩れ、同原告は、帽子と眼鏡を飛ばし、警官隊に背を向けて衆議院車庫の塀伝いに特許庁方向へ逃げる途中つまずいたり溝に足をとられたりして数回転倒した。

以上の警察官の行為により原告新井浩は、少くとも前額部に挫創を負い二針縫合の治療を受け抜糸まで約五、六日を要した。<証拠判断省略>

(九)  原告山口省太郎、同石崎可秀、同今西章の受傷

右原告ら三名は、先に認定したとおりいずれも東京大学原子核研究所の教職員として大研研集団東京大学関係グループの前部附近にいたが、声明文案を読上げている原告山口啓二の横を学生ら(原告山口省太郎にはその数が数百名と思われた。)が駈抜け、ついで大研研集団の中から「スクラムを組め。」という声が掛つたと思う間もなく、警官隊が目前に現われた。

(イ)  原告山口省太郎は周囲の者とスクラムを組んだが、前面に現われた警官隊は、一瞬停止し、東京大学原子核研究所の旗の奪合いをしていたが、次の瞬間には正面から同原告の側頭部、前額部及び右手首を警棒で殴打し、さらに同原告の首に手を巻いて引張り出そうとし、しばし揉み合ううちにスクラムを組んでいた同原告の左手が離れたので、同原告は後向きに逃げ出したところが、衆議院車庫前の路上で同原告は、つまづいて転び、手をついて倒れたところ、警棒らしいもので背中を二回程殴打された。

以上の警察官の行為により同原告は頭部、背部、右手部に全治約五日を要する打撲傷を負つた。

(ロ)  原告石崎可秀は、前面に現われた数名の警察官に向つて、「われわれは学生ではなくて大学研究所の集団である。」と告げたが、言い終るか終らないうちに、警察官の一人は、「何をこの野郎。」と言いながら、同原告の右前額部を警棒で殴打し、さらに同原告の肩を強く押し、同原告が一旦は後方に倒れんばかりとなり、ようやく姿勢を元に戻すと腰投で舗道の上に転倒させたうえ、靴でその足、腰から下腹部辺を数回足蹴にした。

以上の警察官の行為により同原告は治療約二週間を要する腹部強度打撲による腸内出血及び貧血症、並びに頭部打撲傷の診断を受けたがその後は医師の治療を受けないで全治し、勤務には殆ど支障がなかつた。

(ハ)  原告今西章はスクラムを組んだが、前面に進出してきた警察官によつて持つていたプラカードを取り上げられるのとほとんど同時に正面に立止つていた警察官が足蹴にするような格好で接近してきたので、前屈になろうとしたところ、二名の警察官によつて右側頭部辺を二、三回警棒で叩かれ、一瞬気を失わんばかりであつたが、急ぎ国会寄り道路上を逃げ、首相官邸前十字路に至り、左折して特許庁方向に逃げた。

以上の警察官の行為により原告今西章は、治療約一〇日を要する頭部挫創を負い、六針縫合し、全治までに四、五回通院した。

(十)  原告池端功の受傷

原告池端功は、先に認定したとおり明治大学関係グループの先頭附近にいたが、前方約一〇メートル位の地点において進出してくる警察官を認識し、眼前三メートル位まで追つてきたところで警棒を抜いて駈寄る警察官があるのを認めた。そのとき同原告は、集団前列の者が横に構えている竹竿と警官隊の警棒が打付かる響を聞き、とつさに附近の者とともに赤旗を横に構えたが、程なく警官隊の進出とともに、後退を余儀なくされ、やがて約二、三〇メートル下つたところで旗竿を手放して衆議院車庫寄りを首相官邸方向に逃出し、特許庁方向へ左折する辺で、道路の左側に駐車していた二台の自動車(原判決添付細図Ⅱの自動車のあつた地点A)と左側の塀との間の幅一メートル弱の合間に入込んだ。そして、一台の自動車の側を抜出たとき横合から出てきた警察官が「馬鹿野郎。」と言いながら同原告の右足の脛を蹴り、さらに次の自動車の側を通抜けたところで、またも警察官によつて右足を蹴られ、その結果右下腿挫創の傷害を受けたが、当日よりの勤務に支障はなかつた。<証拠判断省略>

(一一)  原告渡辺宏一の受傷

原告渡辺宏一は先に認定したとおり、国会正門の方向から首相官邸の方向に向う警察官の姿を認めたので、雨宿りをしていた地下鉄第一入口から急いで大研研集団の先頭附近に戻り、振返つて見ると、警官隊は、前面数歩のところまできており、一瞬立止つたが、次の瞬間には手を振上げて同原告らに迫つてくる姿が目に入つたので、「スクラム」を組んだ。しかし、集団が混乱状態となると、直ちに警官隊に背を向けて衆議院車庫寄りを首相官邸の方に逃出し、車庫の角を特許庁の方向へ左折しようとした。すると前方に駐車していた二台の自動車(原判決添付細図Ⅱの自動車のあつた地点A)と塀との合間の狭い場所には、すでにかなり多数の者が先を争つて押合い、進むことができなかつたので、同原告は、車庫構内に逃れようと考え、木柵(原判決添付細図ⅡのB点)に手を掛けたとき、警察官によつて襟を掴まれ、それを振り払つて柵を乗り越えようとしたが果さず下に落ち、このとき、警棒のようなもので頭部を一回叩かれた。しかし、同原告は、右木柵の破損した個所を潜つて衆議院車庫構内に入つた。

以上の警察官の行為により、同原告は頭部挫創を負い出血したので、衆議院議員面会所で応急手当を受けた後、救急車で慈恵医科大学付属病院に運ばれ頭部三針縫合の治療を受け、全治までに一週間を要した。

(一二)  原告涼野元、同幼方直吉、同尾崎庄太郎、同野原四郎、同野村昭夫、同山辺健太郎、同大須賀きくの受傷

右原告ら七名のうち山辺健太郎は、民間研究者、その余の原告らは民間研究所の研究員として、大研研の民間研究所グループに属し先に認定したとおり、いずれも大研研の集団の中程から後部列内に位置していた。

(イ)  原告涼野元は、学生の集団が大研研の左横を駈抜けると間もなく、大研研の集団のプラカード類を警棒らしいものでばたばた叩いている警官隊の姿が目に映つたと思うと、たちまち大研研の集団は、後方に圧迫され、前部の者が徐々に後退してきたので、右手でスクラムを組んでいた同原告は、倒れんばかりとなつてこれを支えたが、程なく人垣が崩れ、警棒を抜いた警察官と直面した。そこで同原告は、あわてて国会側に向い腰を屈めるような姿勢で逃出したがその際一人の警察官は手拳で同原告の鼻根部を殴り、右大腿部を蹴り、さらに手拳で口唇部を一撃し、その間に警棒らしいもので頭頂部を叩いた。

以上の警察官の行為により、同原告は、一〇日間の通院を要した頭頂部割創、鼻根部挫創を受け、頭頂部割創については三針縫合された。

(ロ)  原告幼方直吉は、大研研の集団の先頭部が突如崩れて後退し、混乱状態となつたので、衆議院車庫に沿つて首相官邸方向に逃出し、車庫の角を左折し、特許庁方向へ向おうとしてその附近に駐車していた二台の自動車(原判決添付細図Ⅱの自動車のあつた地点A)と左側の車庫の塀との合間に逃込んだ。しかし、すでにかなり多数の者が先に逃げ込み、先を争つて押合つていたため、進路を阻まれ、まごついていたとき、後から襟首を掴まれ、「この野郎。」というような罵声と共に警察官から後頭部を警棒のようなもので二回殴打されたので、急いでその場から特許庁方向に逃げた。

以上の警察官の行為により、同原告は安静加療約一週間を要する血腫を伴う左側及び右側頭部挫創を受け、いずれも一針づつ縫合された。なお原審における原告幼方直吉本人の供述によれば、同原告は右の受傷後約三月を経過した頃、脳波の検査を受けたところ若干の異常がみられるとの診断がなされたことが認められるが、右本人の供述によれば、それ以前に、同原告は脳波の検査を受けたことがないことが認められるから、脳波の異常が右の傷害に基因するか否かの点は不明であつて他にこれが右の傷害に原因することを肯定するに足る資料はない。

(ハ)  原告尾崎庄太郎は、スクラムを組めとの声を耳にし、これに応じようとしたが、原告幼方について認定したのと同じ状況でその暇もなく、後向に逃げ出し、衆議院車庫の角を左折し、特許庁方向へ向おうとして、その附近に駐車していた自動車と左側の車庫の塀との合間に逃込み、その狭い間隙を抜出ると、直ぐ前を行く一人の男が首相官邸の辺から走寄つてきた警察官の一人に殴打されて原判決添付細図Ⅱの車庫の前の路上で転倒しようとしたのに打付かつたため、同原告もこれにつまずいて前に倒れ、手と膝を地面についた。そのとき、その附近にいた警察官によつて警棒のような物で肩部と頭部を殴打され、腰や胴の辺を靴で蹴られた。

以上の警察官の行為により同原告は長さ一八ミリメートルの後頭部裂創を受け、全治まで約一週間通院した。

(ニ)  原告野村昭夫は、学生の一団が大研研の集団の横を通抜けた後、集団の後部から「右翼がきた。」、「白バイがきた。」との声があり、また前方指揮班の辺からと思われる「スクラムを組め。」という声を聞き、附近の者とスクラムを組んだが、たちまち前方から後退してくる人に押され、スクラムを組んだまま後退したところ、後方が算を乱して首相官邸方向に逃出したので、自らも後向になつて逃げ、衆議院車庫の脇を左折して特許庁の方に向おうとした。ところが、首相官邸正門前辺で携行していた原稿を書くための資料入の紙袋を追いかけてきた警察官に奪われたので、これを取り戻そうとして後方に二、三歩戻つたとき、資料袋を踏みつけていた警察官は、同原告の右足に足払を掛け、転倒した同原告を附近の数名の警察官が取り囲むような形となり、そのうちの者が警棒と思われる物で同原告の後頭部を一、二回殴打し、さらに右肩胛骨下を殴り右腰背部を靴で蹴つたり踏付けたりした。

以上の警察官の行為により同原告は二針縫合を要する頭部外傷のほか、左側頭骨皸裂骨折を負い、約一週間治療を受け外傷は快癒したが、同年八月下旬頃頭痛や目眩がひどいので診療を受けたところ、脳圧が異常であると診断されたので、さらに精密検査を受けるべく同年九月九日三井厚生病院に入院治療を受け、三週間後に退院、同年一〇月中頃職場に復帰することができた。

(ホ)  原告山辺健太郎は、大研研の集団の前部と警官隊との接触を知らなかつたが、前部の者が後退し、列が詰つてくるので、大研研の集団が行進を開始するのかと思つているうちに、脇を走つて逃げる者があり、やがて周囲の者が後向となり、算を乱して逃げる状況となつたので、自らも後向になり、首相官邸方向から、特許庁方向に赴くべく、衆議院車庫の角を左折した。ところが、その附近に駐車していた二台の自動車(原判決添付細図Ⅱの自動車のあつた地点A)と車庫の塀との間に倒れていた学生風の男を見付け、これを助け起そうとしているとき、附近の四、五名の警察官が同原告の左胸部、肩、足などを連打した。

以上の警察官の行為により、同原告は左側第一〇肋骨骨折の傷害を受けたが、治療の結果同年七月二一日に全治した。

(ヘ)  原告大須賀きくは、「右翼だぞ。」、「スクラムを組め。」という言葉が殆んど同時に耳に入り、傍にいた夫の哲夫及び同僚の高野らとスクラムを組んだ。そのとき大研研の集団の前方の者が後退して押詰り、後部の者との間に挾まれ動きが取れなくなつたので、押潰されては大変だと思い、夫哲夫及び高野とともに腕を組んだまま、地下鉄第二入口方向に向つて国会寄りの舗道を首相官邸の方に逃出した。ところが、地下鉄第二入口前辺で高野が何かにつまずいて転倒したため、同原告も一緒に路上に倒れ、助け起した夫と再び手を組んで特許庁方向へ至る坂道を下り、坂下門のやや手前、(原判決添付細図Ⅱの「自動車のあつた地点」B)まで逃げたとき、追つてきた警察官が、いきなり警棒のような物で同原告の頭部を殴打し、背中を小突いたため、同原告は前に転倒し、そこをまたも何回か小突かれた。そのうち「女だから止めろ。」と制止する他の警察官の声がして、暴行が止み、同原告は、附近に駐車していた輸送車の間に一旦隠れ特許庁の方に向つた。

以上の警察官の行為により、同原告は治療約一〇日を要する骨膜に達する頭頂部裂創と背部打撲傷を受け、頭頂部裂創については二針縫合され、一週間後に抜糸されたが、その後時として頭痛を強く覚えるようになつた。<証拠判断省略>

(一三)  原告高橋信一郎、同名和利也の受傷

原告高橋信一郎、同名和利也は先に認定したとおり原告湯川和夫とともに大研研の集団の右側前部を占めていた法政大学関係グループに属していた。

(イ)  原告高橋信一郎は、法政大学関係グループの中程にいたが、初め「右翼が大勢やつてくるそうだから隊列を整えて下さい。」という趣旨の呼掛があり、ついで「右翼がきた。」、「スクラムを組め。」という趣旨の切迫した叫声を聞いたので、前方に列を詰めスクラムを組もうとしたとき、早くも前面の者が押されてじりじり後退してきたので、体をもつてこれを支えているうちに、前方で手や棒切が上り、悲鳴のような声も混つて騒然となつてきたかと思うと、前方からの「駄目だ。」、「逃げろ。」という声に続いて後方にいた一団の者が後向になつて首相官邸の方へ逃げているのを見たので、同原告も逃出し、衆議院車庫の角を左折した。そして、その辺に駐車していた二台の自動車(原判決添付細図Ⅱ自動車のあつた地点A)と左側車庫の塀との合間に入込んだが、手前の自動車と塀との間には、すでに、数名の者が入つており、その者の通抜けるのを待つて、該自動車の前面に出ようとしたところ、足許に一人の女性が倒れていたので、同女を助け出そうかと考えていたとき、背後から固いもので背骨のあたりを叩かれたが、背後には該自動車を取巻くようにしていた警察官以外の者の姿は認められなかつた。同原告が該自動車の前面に出たときに、二番目の車の周囲にも鉄かぶと姿の警察官が、七、八名のデモ隊を取り囲んでいるのが認められたので、同原告は、そこに立止つていたところ、そのとき二名の警察官が同原告に近付き、そのうちの一名は、右腕の腕章を見て、「法政大学の野郎がなんで国会前をうろちよろしているんだ。」と言いながら、腕章を外して取上げ、さらに正面から歩み寄つた三人の警察官の一人は、同原告が左肩に掛けていた電気メガホンを取上げ、「貴様が指揮者か、学生を煽動しやがつて。」などと罵りながら手拳で同原告の顔面を突き、手甲部で顔面に平手打を食わせた。このとき隊列を整えて同原告の前を通掛つた警察官の中から「止めろ、止めろ。」と声を掛けて前記警察官を制止した者があつたが、最初に現われた警察官は、口々に「逮捕だ。」と叫び、後できた警察官の一人は同原告の左腰部を蹴つた。そして逮捕と叫んだ二名の警察官は、同原告の後手を取り衆議院通用門前まで連行したが、同所で学生風の者が警察官にプラカードで殴掛つた隙に同原告は逃出し、衆議院議員面会所に赴いた。

以上の警察官の行為により同原告は腰部打撲症を負い、六月一六日から同月二八日迄慈恵医科大学附属東京病院において湿布の手当を受けた。<証拠判断省略>

(ロ)  原告名和利也は法政大学関係グループの中程にいたが、「右翼が襲撃してきた。」、「隊列を整えよう。」との声を聞くと、間もなく、集団前方の者が後方に勢強く押戻されて後退する態勢となり、遂に後向になつて逃出したので、これと一緒に首相官邸方向に逃げた。そして衆議院車庫の角附近に達したとき、十字路の中央辺で二人の警察官が前へ動きながら警棒を持つて、走つて逃げる者を背後から殴打しているような姿を認め、同原告は、初めて集団の混乱の原因が警官隊であつことを知り、手に持つていた横幕を捨てて特許庁方向に逃げようとしたが、前方には大研研集団の人々がひしめき合つて先に進むことができない状況で、衆議院車庫の角の木柵(原判決添付細図ⅡのB点)を越えて車庫の構内に逃込む人の姿が見られたので、これに倣うべく木柵の前に立止つた。すると、衆議院通用門の辺から二人の警察官が、逃げる人々を警棒で叩きながら近付いてくる姿を認めたので、同原告は、木柵の方を向きこれに身を寄せたまま、頭を右手で覆い、下を向いて警棒による頭部の直撃を防ごうとしたところを、そのうちの一名の警察官によつて警棒で右後頭部とこれに当てていた右手の中指と薬指の間辺に打撃を加えられた。そのために、同原告は、倒れて気を失つたが、そのうちに気が付いて、一旦車庫の構内に逃れた後、救急車で慈恵医科大学附属東京病院に運ばれた。

以上の警察官の行為により同原告は、後頭部、右中指、左上腕に挫傷を受け、六月一六日から慈恵医科大学附属東京病院に、同月一八日からは関東労災病院に入院し、七月二日軽快退院したが、当時、なお脳波の異常が認められたので、退院後も週一、二度通院し、同年九月中旬頃脳波の再検査を受けが、右傷害の後遺症として長時間の読書または対話の際に後頭部の頭重及び吐気を相当長期に亘つて感じた。

(一四)  原告湯川和夫の受傷

原告湯川和夫は、昭和三五年六月一六日午前二時頃、慈恵医科大学附属病院で顔面挫創の治療を受ける時に漸く意識を回復したが、当時同病院において顔面挫創のほか頭頂部挫創、脳震盪症の診断を受けており、六月二三日まで同病院に入院、次いで同日から七月三日まで東京厚生年金病院に入院し、同病院において療養中、胸部に挫創及び打撲の跡があると認められた。しかしながら同月一六日午前一時頃から、同原告が同二時頃意識を回復するまでの間に生じた事実として同人の記憶にあることは、同原告が法政大学関係のグループの中の最前列にいたこと、一六日午前一時過頃、国会正門の方角でパンパンという音が聞え、やがて南通用門の方向から異常な気配が感じられたにもかかわらず、大研研の指揮班がなんら対策を講じそうな模様がなかつたのを不満に思い、同原告は、思わず周囲の者に「スクラムを組もう。」と呼び掛けたこと、スクラムを組んだまま逃出し、隣にいた者が転倒したのにこれを助けることができなくて無念に思つたこと、顔面を流れる血をハンカチーフで抑えながら走つたこと、逃げる途中道路の中央を行くか、自動車と溝の間を行くか、または溝に入ろうかと迷つたこと及び逃走の途中数回転倒したことだけで、その余の事実については記憶が回復せず、昭和三七年三月一二日東京大学附属病院神経科で受けた診察の結果によれば、昭和三五年六月一五日午前一時半前後における同原告の症状は、頭部外傷による脳震盪症及びこれに伴う逆行性健忘の症状に一致することが認められる。従つて原告湯川和夫の受傷の原因となる事実については、記憶喪失のため同原告自身からこれを知るに由なく、他にこれを証明し得べき直接証拠はない。しかし、原審証人法橋和彦の証言によれば、六月一五日大研研の行動に参加し、同一六日午前一時過の大研研と警察官との接触の時まで大研研の集団内にいた早稲田大学大学院学生で労働学院講師法橋和彦が、警官隊以外には道路上に殆んど人の姿が見られなくなつた頃、衆議院車庫の木柵(原判決添付細図ⅠのB点)の角を特許庁方向に曲り終つた地点附近で直立不動の姿勢で首相官邸の方向に向つて一人突立つている間原告を見付け、眼前まで歩み寄り、五、六回「湯川先生」と呼掛けたが、なんの応答もなく、熟視すると鼻に沿うて二筋の血が流れ、目は座り、身体も動かさず、異様に感じられる姿であつたことが認められ、また原審における原告湯川和夫本人の供述によれば、大研研集団の一員であつた法政大学第二高等学校教諭野田市太郎が、これより先右地点附近で同人の前を血を流しながら逃げている原告湯川を見掛けた旨を後日同原告に話したことが認められるのであつて、以上の事実特に法橋和彦及び野田市太郎が受傷した原告湯川和夫を見掛けた時点、場所、その時の同原告の態度と同原告の受傷の部位、傷の性状、特に同原告の受けた頭頂部挫創はそれが脳震盪及び逆行性健忘症を併発する程の強大な加撃に因るものと推測されること、同原告が大研研の先頭附近にいて警官隊に直面し、これに背を向けて逃出したと認められること並びに同原告以外の者に対しても同じ機会に警察官によつて警棒による殴打が可成り加えられたものと認められること等を併せ考慮するときは、原告湯川和夫の受傷のうち頭頂部挫創及びこれと原因を一にするものと認められる脳震盪症、逆行性健忘症は、同原告が当初位置していた衆議院車庫前から首相官邸前十字路附近まで逃げる間に、大研研集団と接触した第五機動隊員の警棒による殴打によつて生じたものと認めるのが相当であり、右認定に反する資料はない。ただ同原告の被つた顔面挫創と胸部挫創兼打撲については、その原因を明らかにする資料は全くなく、前記のとおり同原告が逃げる途中で数回転んだ事実を記憶していることからしても、あるいはその際に生じたものと認める余地がないではなく、従つてこれが警察官の行為によつて生じたことの証明なきに帰する。

しかして同原告は、警察官によつて受けた右の傷害のため、同年六月二三日まで慈恵医科大学附属病院に、同年七月五日まで東京厚生年金病院に引続き入院加療し、約二週間で疵は癒着し、その後も相当期間疼痛が感じられた。

(一五)  原告清水徹の受傷

<証拠>を総合すると、以下の事実が認められこれに反する資料はない。

原告清水徹は、先に認定したとおり、大研研の集団の中に尋ねていた大学院の学生を探し当て、暫く同人と話をした後、国会正門方面に赤く燃えている火を見たので、現場を見るため六月一六日午前一時過頃国会正門の方へ妻美智子と連立つて歩いて行き、衆議院第二議員会館北門を過ぎ恩給局前に差掛つたとき、前方の学生の間に「催涙弾だ。」という声が起り、そのうち花火の爆発音に似た音が数回聞えたので立止つたところ、国会の土手の柵附近から指揮官らしい者が、「こつちへ投げろ。」というようなことを叫んでいたので、危険を感じ、逃出そうとしたが、そのときにわかに学生達の間に動揺が起り、群をなして南通用門の方向へ走出したので、恩給局塀寄りを逃げた。その頃同原告は、一団の警察官が、南通用門の方向に駈けて行つたのを認めたので、混乱の中に巻込まれないために道路から引込んでいる衆議院第二議員会館北門の入口に妻と共に避難したところ、程なく五、六名前後の警察官が、「何をしているんだ。」と詰問してきたので、通行人である旨を告げたけれども聞入れず、いきなり「なにを全学連だろう。」、「こん畜生。」、「共産主義者め。」などと罵りながら、警棒で同原告の頭部等を殴り、さらに一人の警察官は「逮捕する。」と言つて同原告の体に手を掛け道路上に引出した。そこで、同原告が逮捕される覚えはないと主張し、これを振払い、元の位置に戻掛けると、警察官は「公務執行妨害だ。」と叫びながら警棒のような物で同原告の肩、背中及び口唇部附近を数回殴つたり、突いたりする暴行を加え、南通用門方向に立ち去つた。その際同原告の妻も数回殴られ、傍にも同じような目に会つた者が二人あつた。しかるに、その後再び数名の警察官が前記北門のところに現われ、同原告らに対し、「何をしているんだ。」と尋ねたので、同原告が間違つてなぐられた旨を必死に訴えているとき、同原告の妻美智子が同僚のラジオ東京の取材記者中富尚志がその場の状況を録音し始めたのを認め、「中富さん助けて。」と呼掛けたので、同人は、同原告夫妻に気付き、美智子が取材中に暴行を受けたものと思い、中に割つて入り、「ひどいぞ、ラジオ東京だぞ。」と叫んだところ、警察官はその場を立去つた。

以上の警察官の行為により、同原告は、前頭骨陥没骨折、頭頂部挫創、背部打撲傷を負い、直ちに東京大学附属病院に駈付け、同病院に入院し、頭部の三針縫合と頭骨陥没復元の手当を受けたうえ同月二七日退院したが、退院後約一〇日の自宅療養を命ぜられ、また睡眠不足時における頭痛の後遺症を残した。

四  第五機動隊の部隊行動の適法性

(一)  大研研排除の適法性

原告らは、第五機動隊による本件排除行為は、東京都条例第四四号(以下東京都公安条例と言う。)第四条に基づくものであるところ、東京都公安条例は、集会結社の自由、表現の自由を保障する憲法に違反して無効であるから、本件排除行為はそれ自体違法のものであり、仮りに右条例が違憲でないとしても、昭和三五年六月一六日午前〇時頃以降、国会正門前は全学連の学生が、既にチャペルセンター前に後退して座り込みを行なつていたため、大きく穴のあいた状況にあり、しかも同日午前一時頃には阻止車輛の放火も既に下火となり、デモ隊による正門構内への侵入はおろか、正門附近における警官隊とデモ隊との衝突の危険は全くなかつたのであるから、警官隊の出動については東京都公安条例第四条あるいは警察官職務執行法第五条または第七条の要件をみたす状況になく、況んや正門附近から二〇〇メートル以上離れた衆議院車庫前にあつて静穏に待機していた研大研集団に対しては、実力による排除を正当づける事由は全く存在しなかつたのにもかかわらず、藤沢本部長は、小倉警視総監及び玉村総本部長に対しあたかもデモ隊が国会正門から構内に侵入するおそれがあるように報告して違法な部隊出動を請訓しただけでなく、部隊を出動させるにあたつても、現場の状況把握を充分になさず且つ警棒の行使について各機動隊長に適切な指示を与えず、小倉警視総監及び玉村総本部長は、藤沢本部長の右請訓に承認を与え、末松第五機動隊長、松田、井上、大栗、森田第五機動隊各中隊長は、出動にあたり部下隊員に対し、部隊行動の方向、方法並びに警棒使用について具体的な指示を与えず、その結果原告らに違法に傷害を与えたことについて故意または過失があると主張し、被告ら及び補助参加人は、第五機動隊の国会構外への進出及び原告らに行なつた排除行為はなんら違法ではないと主張するので以下この点を順次判断する。

1  東京都公安条例の効力

原告らは東京都公安条例は憲法に違反し、無効であるから、同条例に基づく大研研の排除は違法であると主張するが、同条例を違憲とする理由は明らかでなく、当裁判所は最高裁判所昭和三五年七月二〇日の大法廷の判決と同一の理由によつて同条例は憲法に違反するところがないものと判断する。よつてこの点に関する原告らの主張はこれを排斥する。

2  大研研を東京都公安条例による排除対象としたことの適法性

東京都公安条例第四条によれば、「警視総監は、東京都公安条例の許可を受けないで行なわれた集団行動の参加者に対して、公共の秩序を保持するため、警告を発しその行為を制止しその他背反行為を是正するにつき必要な限度において所要の措置をとることができる」ものとされ、右にいうその他の所要の措置の中には同条例第三条に準じ、同条所定の不許可処分の要件を具備することを条件として、集団行動の参加者を実力により解散させる措置を含むものと解せられる。そして、昭和三五年六月一五日当日の全学連の学生及び大研研の集団行動について、いずれも東京都公安委員会の許可がなかつたことは口頭弁論の全趣旨により明らかであるから、これらの集団行動の参加者を解散させるについて必要な要件、すなわちこれらの集団行動が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合に該当したか否かについて判断する。

(イ) 六月一六日午前一時頃における国会正門前のデモ隊の主力をなしていたと見られる学生の集団は、これより先暴力をもつて南通用門を破壊して国会構内に侵入したうえ、正門内側で抗議集会を行なうため、構内においてこれと対峙する警官隊の阻止線を突破し、正門に向おうとして警官隊と衝突し、南通用門より排除せられたものであり、しかも排除の前後に亘り、国会構内に並べられていた公の財産たる警察の阻止車輛を破壊し、南通用門外に引出し、横転させたうえ、南通用門と国会正門との間の道路上に駐車していた警察の輸送車輛との合計七輛に、つぎつぎに放火炎上させて正門前に移動したものであること、正門前に移動した後も、これらの学生は国会構内に向つて人の生命、身体に危害を与える虞のある投石等を続け、国会正門警察官詰所の一部を破壊し、さらに同じく公の財産たる正門前の一三輛の警察の阻止車輛を繋留ロープを切断して正門前広場に引出し、横転、放火、炎上させ、その焔は路面に流出したガソリンに引火した火とともに一団の火焔となり、また車輛が炎上する度にデモ隊の中から、上る拍手、喚声は爆発音と入雑り、時折襲う降雨もあつて、正門前は凄惨な状景を呈し、この状況は、六月一六日午前一時頃になつても変らなかつたことは前段認定のとおりであつて、かような事態は、それ自体正に東京都公安条例第三条にいわゆる公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合に該当するものと言わなければならない。しかも、同日午前一時過には、約二〇〇〇名以上と見られる学生は、主としてチャペルセンター前に集つて隊伍を整えており、正門附近には約六〇〇名を残すだけとなつたが、なおも正門前に走り寄り、警官隊の控えている国会構内に向つて投石する者が跡を絶えず、さらに一部の者は正門の門扉にロープを掛けて引張りこれを引倒そうとする暴挙に出たので、僅かに三、四輛の阻止車輛を残すだけで国会構内の模様も見えるほど手薄となつていた当時の正門の状況と、先にこれらの学生が正門の内側で抗議集会を行なうと呼号し南通用門の内側で警察官の阻止線突破を試みた事実からすれば、学生の集団の真の意図はともかく、客観的にはこれらの学生が国会正門を突破し、及び国会構内へ突入することを企図するものと認めうべき状況にあつたものと言うことができる。

以上の次第で警視総監は、東京都公安条例第四条の規定により正門前のデモ隊を解散させるため実力を用いてこれを排除しうるものと言うべきである。

(ロ) しかして、六月一六日午前一時過頃、第五機動隊が約三〜四〇〇名と見られる恩給局前のデモ隊を南通用門方向に圧し、地下鉄第一入口附近まできたとき、追われてきたデモ隊が南通用門附近にいた約一〇〇名の学生及び地下鉄第一入口附近にいた五〇名を下らないデモ隊と合流した形となつて投石及びプラカードや旗竿をもつて抵抗するのを抑圧して前進し、逃げるデモ隊を追つたこと、そして追われてきた一〇〇名を遙かに超えると見られるデモ隊のうち学生の一部は、大研研の集団の中に駈込み、原審証人畠山英高の証言によれば、その数は畠山英高の目撃した者だけでも十名位はあり、右デモ隊の殆んど全部は大研研の集団の周辺は止り、中には集団の中にも止つた者があると見られること、警官隊がデモ隊を追つて、大研研の集団に接近すると、集団の中から警察官に対し、「人殺し。」、「馬鹿野郎。」等の悪罵を浴せ、逃げてきたデモ隊と同調、これを鼓舞する態度を示す者があり、また多くの者は、スクラムを組み、旗竿を横に構え、中には旗竿を振上げたり、突出し、あるいは投付ける等気勢を上げて抵抗し、警察官の公務執行であるデモ隊の排除を妨害してデモ隊を掩護し、デモ隊と一体となつた客観的状況にあり、さらに警察官に対して大研研の集団の周辺から投石があり、これらのうちには集団の中よりせられたものと見られるものもあつたことは前段の認定によつて明らかである。そして、このような状況自体、東京都公安条例第四条にいわゆる公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合に該当すると言うべきであるから、大研研を解散せしめるための措置としての実力による排除行為自体は、適法なものと認めなければならない。

3  正当防衛の成否と大研研に対する排除行為の適法性

そこで第五機動隊員が原告らに対する排除行為として同人らに加えた具体的な有形力の行使の適法性について検討する。

原告らが第五機動隊所属の警察官によつて身体の一部を警棒、警棒のような物あるいは手拳等で殴打されまたは足蹴にされて負傷したことは前段認定のとおりである。警察官職務執行法第七条は、その本文において警察官は、自己若しくは他人の防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において武器を使用することができる旨を規定し、その但書において正当防衛、緊急避難に該当する場合又は兇悪犯人の逮捕及び令状執行の際被疑者らが抵抗をする場合等を除いては人に危害を与えてはならない旨を規定しているが、右法条の趣旨は、事物の性質上武器として用いられる場合の警棒の使用その他これに準ずる警察官の実力の行使の場合に類推せられるものと解すべきである。

しかるところ、大研研が東京都公安条例第四条に基づき実力を用いて解散させることのできる集団であり、これに属する者のうちに投石や旗竿を横に構え、竹竿やプラカードを振上げ、突出し、投げつける等実力による抵抗をした者があつたことは前段認定のとおりであるから、かような場合に警察官としてこれらの者に対し自己の防護または公務執行に対する抵抗抑止のため、事態に応じ合理的に必要と判断される限度において武器として警棒を使用その他これに準ずる実力を行使することができるとしても、本件においては、原告山口啓二、同福井正雄は前記のとおり警察官に話しかけた直後に、原告浜本武雄、同山口省太郎、同今西章はスクラムを組んでいるときと逃走中に、その余の原告らはいずれも逃走中に警察官によつて傷害を加えられたことは前認定のとおりであつて、正当防衛の成立を認めるに足りる資料がないばかりでなく、警察官職務執行法第七条の定める武器としての警棒の使用その他これに準ずる実力の行使をなしうべき要件を備えていたことについての立証もない。

しからば、被告らの正当防衛の主張は採用の余地がなく、警察官の原告らに対する加害行為は違法と断すべきである。

4  小倉警視総監、玉村総本部長及び藤沢本部長の過失

正門前のデモ隊が東京都公安条例第四条に基づき実力によつて解散を強行せしめられうる集団であつたこと及び藤沢本部長は六月一五日午後一一時頃以降の正門前の二(二)5に記載したような状況と正門前の学生を主とするデモ隊が南通用門より国会構内へ侵入した経過と侵入の手段方法に鑑み、正門前のデモ隊が国会正門を突破し、構内へ侵入する危険が増大しつつあるものと考え、事態をそのままに放置してデモ隊の侵入を許すようなことになれば、深夜のこととてデモ隊と警官隊との衝突により双方に多数の負傷者を出すばかりか、院内にまでデモ隊の侵入を許すことにもなりかねないから、デモ隊が侵入を図る以前に正門附近のデモ隊を排除する必要があり、そのためには催涙ガス筒の投擲と警官隊の部隊活動を併用する必要があると判断し、玉村総本部長に現場の意見を具申し、玉村総本部長は、これにつき小倉警視総監の指揮を求め、警備総本部が入手した総ての情報に基づき、双方に負傷者を出さないための排除の方法について藤沢本部長との間に約一時間に亘つて意見の交換とそれぞれの意見の検討が行なわれた結果、警棒の使用に慎重を期することとし、国会構内に侵入する虞のある正門前附近のデモ隊を排除するための必要已むを得ない措置として催涙ガスの使用と部隊行動とを併用することに決し、小倉警視総監は、デモ隊の排除について指揮を与えるにいたつたものであることはいずれも先に認定したとおりである。

しからば、小倉警視総監及び諸般の議に与つた玉村総本部長が警官隊の出動を命ずるに当り、もつとも憂慮した点は、前記のような正門前の異状な状況下において警官隊とデモ隊とが接触するときは、双方に多数の負傷者が出る虞れがあることであつて、出動した警官隊がデモ隊の規制に当つて違法にデモ隊に暴行、傷害を加え、または加える虞れがあるとの認識に基づくものではないのは勿論、同人らにおいて当時警官隊についてかような認識をもつべかりし状態が存在したとの証拠はない。そしてこの点は、約一時間に亘つて警官隊とデモ隊との双方に負傷者を出さないですむ排除方法について、藤沢本部長と意見の交換を行なつた玉村総本部長についても同断である。

また藤沢本部長が部隊出動に際し末松第五機動隊長に与えた命令は、恩給局前のデモ隊を人事院方向に排除せよというだけの内容であつたこと、しかるに、第五機動隊が正門横の土手から国会構外の道路上に進したとき、恩給局前のデモ隊は南通用門方向に移動したため、第五機動隊は右命令の趣旨に反し、南通用門方向にデモ隊を排除して行く結果となつたことは先に認定したとおりである。そして、かような結果を招いたことについて、排除命令を発した藤沢本部長において国会正門附近のデモ隊の状況把握が不十分で、警官隊が出動した場合のデモ隊の動向に対する判断の正鵠と計画性を欠いた憾があるとしても、それは同人の裁量に属する命令の内容を誤らせたに止り、そのことが直ちに違法性の問題を生ぜしめるものではなくまた出動地点のような細部の事項は出動する第五機動隊の隊長末松実雄の裁量に任せられうべき事項であつて、これらの事項につき明確な指示を与えることなく、これを末松機動隊長に一任した点も、もとより違法性の問題を生ずる余地なきものと解すべきである。従つてこの点について藤沢本部長に過失の咎めるべきものはなにもない。

5  末松第五機動隊長及び同機動隊各中隊長の過失

(イ) 末松第五機動隊長が藤沢本部長から受けた命令は、恩給局前のデモ隊を人事院方向に排除せよというだけの内容であつたことは前記のとおりであるから、一般的には同機動隊長に、所属部隊の出動を命ずるに際し、少くとも排除の方向を所属の隊員に周知、徹底せしめる義務があるというべきであるが、本件においては、単に「五機前へ。」と号令を掛け、部隊に前進を命じただけで、排除の方向を明示しなかつたことは前記のとおりであり、当時の恩給局前のデモ隊の状況からすれば、これを人事院方向に排除するためには、国会構外への出動地点を、さらに南寄りに選ぶ必要があつたものと認められるにかかわらず、その選択が適切でなかつたため、結果において命令の趣旨に反し南通用門方向にデモ隊を排除することとなつたものと認められる。しかしながら、仮りに藤沢本部長の排除命令のうち「人事院方向へ」との方向の指示が限定的、覊束的性質のものであり、かつ出動地点の選択において適切を欠いたとしても、上司の職務命令に対する違反、延いてはそれによる責任の問題を生ずるのは格別、それが直ちに違法性の問題につながるものと解することはできない。その他排除に関する細部の事項については藤沢本部長より末松第五機動隊長の裁量に任されたたと見るべきことは前記のとおりであり、これらの事項について同機動隊長において、あらためて指示を受けるべき法律上の義務があると解すべき根拠がないのは勿論、これらの事項を全隊員に周知、徹底させなかつたことも、妥当か否かの問題を生ぜしめるのは格別、それが直ちにこの点に関する同機動隊長の措置を違法ならしめるものではない。

因に、現実の問題として藤沢本部長のデモ隊の排除方向の指示は、警官隊が出動すれば、恩給局前のデモ隊は人事院方向へ赴くものとの観測の結果に基づくものであつて、デモ隊の現実の動き如何にかかわらず、その排除の方向を人事院方向に限定しようとする覊束的な趣旨のものではなく、国会正門附近のデモ隊を実力をもつて解散させ、国会周辺外に追い遣ろうとする排除本来の目的に副う限り、排除の方向はデモ隊の動きに応じ、排除に当る各機動隊長の臨機の裁量に一任した趣旨であつたことは原審及び当審証人藤沢三郎の証言によつて明らかであり、また当審証人末松実雄の証言によれば、出動地点を第五機動隊の出動した地点より南寄りに採れば、土手に植栽せられている君が代蘭その他樹木が密生しているため部隊を出動させる上に困難があつたばかりでなく、出動地点を南寄りに採つて正門方向へ進出すれば、第五機動隊は出動までに若干手間取つた関係もあつて、催涙ガス筒の投擲によつて南通用門の方向へ移動していた恩給局前のデモ隊と正面衝突をする危険があつたことが窺われ、延いてはそのとき、すでに正門外に出動していた第一及び第三機動隊によりデモ隊の退路が阻まれる結果一大混乱を現出する可能性もあつたものと認められる。

次に末松第五機動隊長が第五機動隊員に出動を命ずるに当り、隊員に対し警棒使用についてなんらの指示をも与えなかつたことは先に認定したところから明らかであるが、警棒の使用については、当時の警視庁警察官警棒等使用及び取扱規程(昭和三二年一〇月一日訓令甲第五〇号)第八条によれば、騒じようの鎮圧、群衆整理、その他部隊活動をする場合においては、指揮官の命令によつて使用することとされており、右規定はいわゆる職務命令として警察官を拘束し、かつ平素の教育、指導、訓練を通じて各警察官に周知徹底させられていたことは察知するに難くないから、末松第五機動隊長が出動命令を下したとき、あらためて警棒使用についての指示を与える必要はなく、従つてこれを与えなかつたことをもつて同機動隊長に過失があるとすることはできない。

なお、本件の場合においても末松第五機動隊長は部下の隊員が違法に警棒を使用していることを認識する限りこれを制止する義務があることはもとより当然であつて、前掲丙第一二号証の一と原審証人末松実雄の証言によれば、末松第五機動隊長は現に南通用門附近において警棒を使用している隊員を見たので警棒を収めるよう命じたことが認められるが、本件の全資料によるも末松第五機動隊長において隊員が違法に警棒を使用している状況を現認した事実を認めることができないばかりでなく、前記の如く暗夜各種の抵抗を示す四〜五〇〇名のデモ隊とその排除に当る数百名の警官隊が入乱れている混乱の最中において、部下の隊員が自己の判断において警棒を使用する状況に逐一注意し、警棒の使用が適法かどうかを判断してこれに対する指示を与えることを末松第五機動隊長に期待することは不可能を求めるにも等しいと考えられるから、同人が部下隊員の違法な警棒の使用を制止し得なかつたことをもつて過失の責を帰することはできない。

(ロ) 第五機動隊の第一中隊長松田善次郎、第二中隊長長井上善正、第三中隊長大栗元市及び第四中隊長森田高義は、末松第五機動隊長の「五機前へ。」の命令により出動するに際し、排除の対象が恩給局のデモ隊であることは知つていたが、排除の方向、警棒の使用その他細部についての指示を受けていなかつたこと、従つて右各中隊長が出動に際し、いずれも部下の隊員にこれらの事項についてなんらの指示を与えなかつたことは先に認定したところから明らかである。しかしながら、右各中隊長は、部隊と行動を共にする末松機動隊長の直接の指揮を受けて部下の中隊員を指揮する関係に立ち、同機動隊長の命令も臨機応変に発せられる性質のものであると解せられるから、デモ隊の排除につき方向その他細部に亘り、右各中隊長においてあらかじめ同機動隊長の指示を受け、かつこれを各中隊員に徹底させるところがなかつたとしても、強ち妥当を欠くとは認められず、ましてかような措置を採らなかつたことをもつて違法と認めるべきではない。また、右各中隊長が警棒の使用について各中隊員になんらの指示をしなかつたこと、右各中隊長が部下の警棒の違法使用を現認した事実の認められないこと及びこれを現認しなかつたについて過失を認められないことについては、先に末松第五機動隊長について述べたところと同断である。

(二)  加害警察官の特定

被告らは、原告らが第五機動隊の行為によつて受傷したとしても、加害警察官が特定されない限り、被告らにおいて損害賠償責任を負うべきいわれはないと主張する。そして以上に認定したところによつても、原告らに対する加害者が第五機動隊所属の警察官であることを認める得るに止り、個々の加害者を特定し得るだけの資料はない。

惟うに、国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員の違法な職務執行行為によつて損害を被つた者が国又は公共団体に対し損害賠償を請求するには加害者を特定することを要しないものと解すべきである。けだし、いやしも加害者が公務員であり、その職務執行行為が不法行為の要件を具備することが明白な場合においても、なお加害者が特定しない故をもつて国又は当該公共団体の損害賠償責任を否定すべき謂れはなく、そして、それは、また国家賠償の制度が国民の権利の保障を最終的に裏付ける制度として国民の権利救済を全うしようとする目的にも合致するからである。もつとも、被害者が国または当該公共団体に損害賠償を請求する場合には、一般的に加害者を特定して主張せられるが、それは加害者が果して国または当該公共団体の公務員であるか否かを確定する必要に基づくものであつて、それ以上の意義を有しないものと解すべきである。また、もし、加害者が不特定のため、国または公共団体の加害者に対する求償権の行使が不能に陥るとの理由で国または公共団体の損害賠償責任を否定しようとするのは、国民に与えられた権利を加害者と国または公共団体の内部関係を理由に奪おうとするものであつて、本末顛倒の論に過ぎない。よつて被告らのこの点に関する主張は採用に価しない。

(三)  被告らの損害賠償責任

1  被告国の責任

小倉警視総監、玉村総本部長、藤沢本部長がいずれも被告国の公務員であつて、それぞれ前者が後者を指揮監督すべき立場にあり、第五機動隊長がさらに藤沢本部長の指揮監督を受けるべき立場にあつたことは当事者間に争いがない。

しかしながら小倉警視総監、玉村総本部長、藤沢本部長の三名には、正門前のデモ隊の排除を指揮し、あるいは排除を命じたことについて過失が認められないことは先に四(一)4において認定したところであるから、同人らにこの点の過失あることを前提として被告国に損害賠償義務があるとする原告らの主張は失当である。

次に原告らは、第五機動隊員の大研研に対する排除は国会の内部警察権を有する衆、参両院議長の要請により国会構内に派遣された警察官が国会警備のために行つたものであるから、第五機動隊の排除行為は国の公権力の行使に当ると主張し、第五機動隊が衆参両院議長の要請により国会構内に派遣された警察官の一部であつたことは前段に認定したところから明らかである。

惟うに、衆参各議院の議長の有する内部警察権は、国会の自律権に基づき各議院の紀律を保持するために認められた権能であつて、議院の外部に及ぶものでないことは国会法第一一四条衆議院規則第二〇八条、参議院規則第二一七条によつて明らかである。しかるに、本件において第五機動隊によつて排除せられたデモ隊は、国会の正門外において集団行動をしていたものであるから、その排除行為が、たといデモ隊の国会構内への侵入を阻止するために行なわれたものであるとしても、排除行為の直接の目的は議院の紀律保持のためではなく、東京都公安条例第四条にいう公共の秩序を保持することにあつたものと解すべきであつて、それは議長の院内警察権に基づくものではなく、一般警察権の行使に外ならないものと解すべきである。従つてこのような場合には、警視総監は議院の内部に派遣せられ、議長の指揮を受けるべき警察官以外の警察官によつてデモ隊を排除しても、もとよりなんら差支えがなく、本件の場合は議長の承認を得た上議院の内部に派遣せられた警察官をして排除行為に当らせたというに過ぎない。右の理由により本件の第五機動隊の排除行為は国の公権力の行使ということはできないから、原告らのこの点に関する主張は理由がない。

そうすると本件排除行為が国の公権力の行使であることを理由として被告国に損害賠償義務があるとする原告らの主張は失当であり結局原告らの被告国に対する本訴請求はその理由がない。

2  被告東京都の責任

末松第五機動隊長を初め第五機動隊の各中隊長及び各隊員がいずれも被告東京都の公務員であることは当事者間に争いがなく、第五機動隊の大研研排除行為が東京都公安条例に基づく東京都の公権力の行使であることは先に四(一)2において認定したところから明らかである。

しかして第五機動隊の大研研に対する排除行為について、末松第五機動隊長及び松田、井上、大栗、森田の各中隊長に過失が認められないことは先に四(一)5において認定したところであるが、第五機動隊が原告らに加えた警棒、手拳等による殴打及び足蹴が違法なものであることも先に四(一)3において説示したところであるから、被告東京都は、国家賠償法第一条の規定に基づき第五機動隊員の違法な公権力の行使によつて原告らが蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

(四)  原告野原四郎、同早川正賢の受傷

1  原告野原四郎

原告野原四郎は、当初警官隊と大研研が接触したことを知らなかつたが、突如前方で「逃げろ。」と言う叫声が起り、瞬時振返つて首相官邸の方を見たとき、前部から同方向へ逃げようとする人波に押されたので、直ちに首相官邸の方に逃出し、官邸前の十字路の手前に達したとき、背後から棒状の物で後頭部を二回叩かれたと感じた。しかし、同原告は、大研研の集団の大学院グループに属すると思われる者と共に一目散に特許庁方向に向つて逃げ、途中「もう止れ。」、「スクラムを組め」、「いや警官が逃いかけてくる。」等の声を後方で耳にしながらも、一回も後を振返ることなく走り続け、大研研の集団の先駆として少数の者とともに特許庁前に達したが、逃走の前後を通じ警察官の姿は一度も目にしていない。ところで<証拠>によれば、同原告が六月一九日上井草診療所で医師の診察を受けたとき、一週間の安静を要する後頭部打撲傷を負い、頭部にこぶができていたことが認められるが、前段認定の事実と原審における尋問において、同原告が、特許庁前まで逃げる途上、警察官が同原告に接近してきたようなことはないと供述していること及び当時大研研集団並びにこれと合流した形で逃出したデモ隊のなかには旗棒やプラカードを持つていた者のあることを総合すれば、同原告の負傷は、同原告と一緒に逃げた者が所持していた旗棒やプラカードによつて生じた可能性も考えられ、同原告の受傷が警察官の行為によつて生じたものであることについてはその証明なきに帰する。

原告早川正賢

<証拠>によれば、医師野尻与市は、六月二一日同原告が加療五、六日を要する頭部裂創及び加療約一〇日を要する左腕、左背、右脚部の打撲傷を負つているものとの診断を下したことが明らかであり、同原告は、原審並びに当審における尋問において、右傷害はいずれも、国会正門附近から恩給局の塀に沿つて逃げる同原告に警官隊が追い迫り、衆議院第二議員会館北門の南角附近の側溝及び同議員会館北門の奥入口右隅附近において前後三度に亘つて警棒により殴打した結果生じたものである旨を供述しているけれども、同原告の右供述は受傷の場所及び状況について相互に矛盾するところが少なくないのみならず、特に右北門入口の状況については、前記のとおり当時同所にいた原告清水徹の供述するところと全く相違するので、同原告の供述を採用する以上原告早川の供述は採用するに由なく、さらに同原告の右供述によれば、同原告は負傷した一六日の朝勤務する東京教育大学の医局の看護婦にヨードチンキを塗つて貰つたことが認められるが、それ以外の手当を受けた形跡は認められず、また前記診断書は、治療に関係のない野尻医師に受傷の五日後に作成させたものであつて、その体裁及び文言から見てこれをそのままに採用しがたく、同原告が主張するような傷害が同原告の主張する場所においてその主張のような経過て生じたかについては疑なしとしないから、結局同原告の右傷害が警察官の行為によつて生じたものとの証明なきに帰する。

五  慰藉料の算定

(一)  原告清水徹について

原告清水徹は、衆議院第二議員会館北門入口附近道路上において傷害を受けたものであるが、前段認定の、同原告の当時の服装からしても同人は恩給局前のデモ隊と誤認されても已むを得ない状況下にあつた。しかしながら、同原告は、道路から引込んでいる衆議院第二議員会館北門入口に妻とともに避難していた者で、格別警官隊に対し抵抗の姿勢を示したわけではなく、五、六名前後の警察官が近づいて「なにをしているんだ。」と同原告に詰問したときにも「通行人であつてデモ隊ではない。」と告げたのにもかかわらず、警察官から暴行を受けたもので、諸般の事情と同原告の被害の部位、程度、地位、職業等を考慮すれば、同原告の慰藉料は金二〇万円をもつて相当と認める。

(二)  その他の原告(但し原告早川正賢及び同野原四郎を除く。)について

原告らは、いずれも衆議院車庫事務所前あたりから首相官邸前十字路附近及び首相官邸前から坂下門の辺までの道路上で受傷したことは前段認定のとおりである。よつて被告らの過失相殺の主張について判断する。

前段認定の大研研の排除に至る経過と原審及び当審人末松実雄の証言によれば、藤沢本部長の末松第五機動隊長に対する排除命令は恩給局前のデモ隊を人事院方向に排除せよというものであり、当時藤沢を初として第五機動隊の各中隊長に至るまで衆議院車庫前にいた大研研の存在すら知らず、たまたまデモ隊が大研研の位置する方向に移動したためにこれと接触するに至つたものであることが認められ、他方において大研研に属する原告らも、デモ隊の移動の方向、延いては自ら排除を受けるに至るべきことを夢想もしていなかつたことは原審並びに当審における原告ら本人の各供述によつて明らかであるから、大研研があえて危険な場所に位置していたとし、原告らが受傷するに至つたについて、この点に原告らの過失がある旨の被告らの主張は採用することができない。さらに被告らは、原告らが再三の解散警告に応じなかつた点に原告らの過失があると主張するが、本件の全資料による排除行為に先立ち、大研研の集団自体に対して解散の警告が発せられたとの事実は認められない。しかしながら、警官隊がデモ隊を追つて大研研の集団に接近すると集団に属する多くの者はスクラムを組み、旗竿を構え、中には旗竿やプラカードを振上げたり、プラカードを突出し、あるいは投付ける等の行動に出で、また中には警官隊に向つて投石し、さらに「人殺し。」「馬鹿野郎。」等の悪罵を放ち、逃げてきたデモ隊と同調し、気勢を上げた者もあつたことは前段認定のとおりであつて、このような挑発的言動は警官隊を必要以上に刺戟し、延いては原告らが被害を受ける一因となつたことは想察に難くないから、この点に原告らの過失があり、慰藉料の算定に斟酌されるべきである。もつとも、当時大研研の位置する衆議院車庫前にいた原告ら全部についてこれらの挑発的言動があつた事実を認めるに走る資料はないが、大研研は同一の目的で指揮班の指揮の下に一体として統一的行動を採り、これに属する者は、相互に協力援護する関係にあつたのであるから、各員の個個の行為によつてこの点につき異別の取扱をなすべきではない。そこで右原告らの地位、職業、受傷の部位、程度、右に述べた原告らの過失の程度等一切の事情を考慮するときは、原告福井正雄については金一〇万円、原告山口啓二については金二万円、原告新井浩については金三万円、原告山口省太郎については金一万円、原告石崎可秀については金三万円、原告今西章については金七万円、原告渡辺宏一については金五万円、原告湯川和夫については金二〇万円、原告高橋信一郎については金一万円、原告名和利也については金二〇万円、原告清水義汎については金七万円、原告森章については金三万円、原告山崎昂一については金七万円、原告浜本武雄については金三万円、原告池端功については金一万円、原告幼方直吉については金五万円、原告尾崎庄太郎については金三万円、原告涼野元については金五万円、原告大須賀きくについては金一〇万円、原告野村昭夫については金二五万円、原告山辺健太郎については金二五万円、原告清水徹については金二〇万円をもつてそれぞれ相当と認める。

六以上の次第であつて原告等の本訴請求のうち原告早川正賢、同野村四郎を除くその余の原告の被告東京都に対する請求は右記載の各金額とこれに対する不法行為の日の翌日である昭和三五年六月一七日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の部分及び原告早川正賢、同野原四郎の被告東京都に対する請求並びに原告らの被告国に対する請求は失当であるからこれを棄却すべきである。

よつて原判決中右と異なる第一審原告野村昭夫、同山辺健太郎、同清水徹、同福井正雄、同大須賀きく、同清水義汎、同渡辺宏一、同幼方直吉、同涼野元、同新井浩、同石崎可秀、同森章、同浜本武雄、同尾崎庄太郎、同山口啓二、同山口省太郎、同高橋信一郎、同池端功と被告東京都に関する部分を主文二(二)記載のとおり変更し、原判決中第一審原告野原四郎、同早川正賢の被告東京都に対する請求を認容した部分を取り消して同原告らの右請求を棄却し、原告らの被告国に対する各控訴及び原告福井正雄、同山口啓二、同新井浩、同山口省太郎、同石崎可秀、同今西章、同渡辺宏一、同湯川和夫、同高橋信一郎、同名和利也、同清水義汎、同森章、同山崎昂一、同浜本武雄、同池端功、同幼方直吉、同野原四郎、同尾崎庄太郎、同涼野元、同大須賀きく、同早川正賢らの被告東京都に対する各控訴並びに被告東京都の原告野村昭夫、同山辺健太郎、同清水徹、同同湯川和夫、同名和利也、同今西章、同山崎昂一に対する各控訴は理由なきものとしてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第九六条、第八九条、第九二条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。(仁分百合人 小山俊彦 右田堯雄)

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